「辞表はね、事務長さんの机の中に入れてきました」
「黙って?」
「言ったら、止められちゃうじゃありませんか〜」
 そういう問題じゃあないんじゃないかと、ディーは思う。
 だが、過ぎてしまったことをあれこれ言っても仕方ないことも、わかってはいた。
 ディーがこの後どうなるだろうかは、シーサが自分で説明したことだ。それをわかって
いながら、ついてきたのだから。
「先に行ってる調査団には、ハンナも参加してるって言ってたじゃないか。なあ、大丈夫
なのか?」
 だがそれでも、ディーはその波紋について考えを巡らせることを止めたわけではなかっ
た。シーサがついてくるということが、どのような意味を持つのかと。
 それはけして、誰にも何の影響も与えないことではないはずだ。
「……どうでしょうねぇ。強い子ですから、どうにかしてくれるといいんですが」
「やっぱ、戻れよ! あんた」
 シーサ自身の口からそれを肯定するような言葉が出ると、やはり我慢できなくなった。
 今ならまだ、きっと間に合うと、ディーはプラットホームでシーサの肩を押す。
「わあ〜危ないですよ、ディー君。駅では気をつけないと、汽車が来たときに線路の上に
いるとペシャンコですよぅ〜」
 ここは駅。今では世界でもわりあい珍しい存在となった汽車が、いくつかの都市を結ん
で走っている……そのフォーパ市の駅だ。
 汽車はかつての大戦を生き残った文明の欠片で、ここはフォーパ市では唯一の駅となる。
 汽車は蒸気機関で、燃料は龍木と呼ばれる爆発的な火力を持った木材である。ただし龍
木は貴重品で、この駅でも汽車は三日に一度ほどしか通らない。
 むろんディーにとっては汽車に乗ることも、駅でそれを待つことも、初めての体験だっ
た。
 シーサの言葉に慌てて、ディーは逆にシーサを引き寄せた。
 結局押されたり引かれたりして、とうとうバランスを崩して、シーサはディーを潰す形
でひっくり返った。
「あたた……大丈夫ですか、ディー君」
「ぃてー……」
「だいじょうぶ?」
 ロムの中ではやはり目立つ丸い耳を帽子ですっかり覆い隠したヨシノが、ひっくり返っ
たディーとシーサを覗き込む。
「……ああ」
 尻尾の付け根の痛みに耐えながら、ディーはヨシノに答えた。
「びっくりした。だめですよ、駅で暴れちゃ」
 それからディーは、説教をするシーサを軽く睨んだ。
 シーサはディーがどうしてそういう行動に出たのか、すっかり忘れたかのようだ。
「さっきの話だけど、戻れよ、あんたは」
 尻の埃を叩きながら、ディーは立ち上がる。そして同じように立ち上がったシーサに、
不機嫌そうに、もう一度繰り返した。
「ハンナを困らせてまで、俺につきあうことはないだろ」
「……もう手遅れですよ」
 だがそう言いながら、シーサは微笑む。
「君がヨシノちゃんを連れていくと決めた時点で、私の責任がまったく追求されないとい
うことはなくなったのです。たとえ今、私が君についていかなくても、ヨシノちゃんがい
なくなったことがわかれば、そして君たちが姿を消したことがわかれば、その接点である
私は追求を受けるでしょう」
 それは自分のせいだと正面から言われたように思って、ディーは息を飲んだ。
「……言わなけりゃいいだろ」
 思わず、シーサの顔から目を逸らす。
「いいえ。そのとき、君たちを見逃したことを、私は隠すつもりはありません」
「どうして!」
「それを隠したら、君から得たあのヴィジョンのことも公表できなくなっちゃうじゃあり
ませんか」
 本当に真剣に、そして不思議そうな顔で、ディーの「どうして」にシーサは答えた。
 ディーは更にどうしてが喉元まで出かかったが、それは押さえた。言っている意味は理
解できる気もしたからだ。ただ、その価値についてはまったく理解できない。
 自分の保身よりも知識に重きを置くそれは、いかなる価値観なのかと考え込む。
「……いえ、それだけではなく。他にも私たちの接触を証言できる者はたくさんいます。
なにしろ、新聞広告だって出してますし……私が口を噤んだところで、どこかから漏れま
すよねぇ」
 ディーの混乱がわかったのか、もっと平易な言葉と理屈でシーサは説明をし直した。
「だから、私が口を噤んでも無駄なのです。ここに残っていれば、やはり私の責任は追求
されることになるのです」
「いや、だから……だからって、ついてくることないだろ」
 ディーはまだ混乱していた。なんだか何か、騙されているような気がしていた。
「残っていても責任は追求されるのですから、ついていって責任を追求されることになっ
ても、私にとっては同じです」
「そう……か?」
 ディーは、それで理屈は合っているような気が、少しだけする。だが、やっぱり騙され
ているような気もする。
「辞表を置いてきたのは、そうしておけば大学や都市の責任ではなく、私の責任にできる
かもしれないからですね……親子の縁は切れませんから、ハンナには辛い思いをさせるか
もしれませんが……これは私が君についていってもいかなくても、どちらでも、きっと変
わりません。私は同じように責任を負うのならば、君とヨシノちゃんの行く末を見届けた
いと思います。もしも君たちが途中で挫折して、船までたどりつけなかったなら、私もハ
ンナも責任の取り損だと思います!」
 握り拳を振り上げて、シーサは熱く語った。
 それは冷静な状態の元妻や娘が聞いたなら、いくらでも反論できそうな穴だらけの理屈
だが……ディーはだんだん、シーサの言っている理屈が正しいような気分が強くなってく
る。
「そうか」
「だから、一緒に行って君たちがちゃんとたどりつけるように、協力したいのですよ」
 ここでディーは、三度目の戻れは言えなくなっていた。何かまだ、心には引っかかって
はいたけれど。
「……わかったよ」
 降参、というようにディーは尻尾をだらんと下げた。
「よかった! わかっていただけたんですね」
 シーサは子供のように喜んで跳ね回った。
 これで自分の親よりも少し若いぐらいだとは、ディーにはとても見えなかった。
 ヨシノもシーサの同行を喜ぶように……もしかしたらシーサにつられただけかもしれな
いが……手を叩いて飛び跳ねている。
 これでは、ディーは負けを認めざるをえないだろう。
「そりゃ、あんたがいたほうが、場所はきっとわかりやすいんだからさ。俺は海の知識は
全然ないし、座標とか言われてもちんぷんかんぷんだし」
「ディー君、学校では座標はやりませんでしたか」
 シーサはすっかり気をよくしたのか、教師の顔でディーに訊ねる。
「聞いたこともないよ、田舎なんだから。都市の学校とは違うんだぜ」
 優秀ならもっと大きい町の寄宿学校にでも行く。そしてもっと優秀なら、都市の大学校
に入る。連邦では大学で学問を納めることに年齢は関係ないとされているが、田舎から都
市の大学に行くような子は、幼いころから勉強熱心な子だ。
 ディーは自分はそうではなかった、と言う。
「ちょっと意外ですねぇ、好奇心が強そうだと思っていましたから」
「好奇心と勉強と、どう関係があるんだよ」
 ははは、とシーサは笑った。
 その笑いかたにディーはカチンときた反面、当たり前のことを知らないという無知を披
露してしまったのではないかと不安にもなる。
「なんだよ!」
「いえいえ……すみません、笑ってしまって」
 まだニコニコと、シーサはディーを見ていた。更に文句を言い募ろうかとディーが口を
開きかけたとき、ヨシノの声が彼らを呼んだ。
「ねえ! 汽車よ」
 ディーが振り返ったときには、まだその姿は見えなかった。
 草原の中の田舎町で育ったディーの視力は、かなりいいほうだ。だが。
「見えませんが……」
 少なくとも、きっと普段から眼鏡をかけているシーサよりはずっと、ディーのほうが遠
くまで見えるだろう。
 ディーに見えないのだから、シーサには見えるまい。
 だが、数十秒後にはディーにも地平線に煙が流れているのがわかった。多分、あの煙を
吐いているのが汽車だと、身を乗り出す。
「ああ、危ないですよ。さっき、注意したでしょう〜」
 そういうシーサに、ディーは乗り出した体を押さえられる。
「ああ、ごめん……なあ、あの煙がそうだな。ずいぶん目がいいんだな、おまえ」
 体を引くと、自分よりも目がいいと感心して、ディーはヨシノの顔をまじまじと見た。
「目がいい?」
 ヨシノは大きな目を見開いて、小首を傾げている。まるで自覚はないようだった。
「ああ、俺は町でも、けっこう遠くまで見えるほうだったんだぜ。リットには負けたけど
……リット並みかな、おまえ。山の民は遠くまで見えるヤツが多いんだ」
 少し興奮しているせいか、ヨシノには説明なしにはわからないことも含めて、ディーは
饒舌に喋った。
「リットって?」
 ヨシノは、また首を傾げる。
 目覚めたその瞬間のことは憶えてはいないのだろうし、憶えていたとしてもその名を知
るはずもない。
 ディーはまだ別れてからそれほど経ってはいないのに、ずいぶん昔のことを思い出すよ
うな気持ちで、リットの顔を思い浮かべた。
「……眠ってたおまえたちを、最初に見つけたヤツさ。ここにも一緒に行こうって誘った
けど、もうじきおとなになるための試練の旅に挑戦しなくちゃいけないからっていって」
「山の民の通過儀礼ですね。もう彼は試練を受けるんですか」
 今度はシーサが目を見開いた。
 リットは幼くも見えるから、シーサは驚いたようだった。
「年齢はあんまり関係ないんだってさ。何をするのかは教えてくれなかったけど、上手く
いくといい……な」
 山の民の試練は過酷で、それで命を落とす者もいると聞いていたから……ディーは心か
ら親友の生還を祈る。
「そうですね……ああ話していたら、もう汽車がだいぶ近づいてきましたねぇ。ディー君、
ヨシノちゃん、ほら、もう少し下がってくださいね」
 ディーは言われた通りに一歩下がりながらも、目はまた汽車の厳つい姿に引かれていた。
 初めて見る汽車は、黒くて大きく速かった。
「なあ、あれ、どうやって走ってるんだ?」
「蒸気機関の仕組みですか? 私も専門じゃないですから……」
 ディーに袖を引かれたシーサは、困ったように頭を掻いた。
「乗ってから、ゆっくり説明しましょう。ちょっと思い出す時間をください」
 風を起こして、汽車は駅に入ってきた。
「終点まで、時間はたっぷりありますから」
 終点の、海のある都市まで。

 南洋海上は凪いでいた。
 それが落下した直後には荒れ濁っていたという海水も、今は落ち着いて澄み渡っている。
「いつまで、海の上にいるのかしら」
「あれを引っ張り上げるまで、よ」
 青い海面を眺めてついたため息に、返事があるとはハンナは思っていなかった。
 だがその返事を返したのは母の声だったので、ハンナは声のした位置を見上げて、ため
息の源である不安と不満を続けることにした。
「それは、一生ってこと?」
 口にすると、欝々とした気分が増幅する。
「あなたがおばあちゃんになる頃には、あなた以外の参加者はみんな死んでるわ。あなた
が調査団の中では一番若いもの。その頃までには止めるか続けるかの決定権ぐらい、あな
たの手に入っているでしょう。あなたは一生のすべてを捧げなくてもすむと思うけれど」
 母は真面目に言っているようだったので、ハンナは余計にため息が深くなった。
「それって、一生を捧げることと、どう違うのかしら……」
 ここに来るまでは、きっと誰もこんなに困難なことだとは思っていなかった。
 そう思いながら、ハンナはもう一度甲板から海底に目をこらした。
 横に並んで、サラエも水底を覗き込む。
 相変わらず澄んだ海だ。
 だが、入江ほど浅くはないので底の様子までは、はっきりとは見えない。だがその影は
海面にもはっきりと映っていた。
「何の道具もなく引き上げられっこないわ。鉄の塊なんでしょ?」
「鉄ではないみたいよ……なんなのか、まだわからないって、そちらの方面の方は言って
たじゃないの。私たちの文明では、まだ作れてないものだろうって」
「何でできてるかなんて、どうでもいいわ……問題は重いってことよ」
「そうね。それをどうやって引き上げるか、毎日知恵を出し合ってるわ、技術者の皆さん
は」
「私……毎日、ケンカしてるように見えるんだけど」
「そうとも言うわね」
 また深いため息が、ハンナの口から漏れた。
 海底に半ば刺さるような形で、宇宙船は沈んでいる。そのおかげで、宇宙船のおそらく
は船尾にあたる部分のてっぺんは、海上からでも見える。
 おそらく作業は、この「刺さっている」状態をなんとかするところから始めることにな
るのだろう。
 ただでさえ、それほど強力に牽引する方法はないだろうに、半分埋まっていたのでは汽
船で引いたって動くとは思えない。
 長い作業になるようだった。
 そして、ハンナたちの出番は事実上船が引き上げられてから、なのだ。
 それまで飼い殺されるのだと思えば、ため息も出ようと言うもので。
「……お母さん」
「お母さんは止めなさいって言ったでしょう」
「……サラエ博士。私、けっこう目は良いほうなんです」
「お父さんには似なかったわね……言いたいことはわかるけど、言ってごらんなさい」
「沈んでる船の上に、影が見えるわ」
「そう、やっぱりそう思う?」
 母子は甲板の上で船の影の上に、ぐっと目をこらした。
「何か、変わったことでもありましたか?」
 そのとき、彼女たちの背後から声がかかった。
「ちょうど良かったわ、お訊ねしたいことがありましたの」
 サラエは毅然と、背後に立ったコーラルを振り返った。
 コーラルが各都市の代表たちの行動の一つ一つに注意を払っていることは、サラエはも
う気づいていたので、声がかけられたことには疑問は抱かなかった。逆にただ海を覗いて
いる者にさえ注意を払わなくてはならない身に、わずかに同情さえ感じる。
「どなたか、今、潜ってらっしゃるの?」
「いいえ、そのような報告は受けてませんが」
 そう、とサラエは微笑んだ。
「では、ちょっと見ていただきたいのだけど、視力はよろしいほうかしら」
「普通程度には」
 それは、コーラルの謙遜だった。普通よりは視力はいいほうだ。
 サラエの手招きを受けて、コーラルはまだ海を見つめ続けるハンナの隣に立った。
「いかがかしら」
 コーラルは、下を覗き込むなり、上着を脱いだ。
「きゃっ!」
 それを甲板に放り投げて、海に飛び込む。
「……若いっていいわね」
「お母さん、感心してる場合? 大丈夫なの、なんの準備もなく飛び込んじゃって」
 ハンナは潜っていったコーラルの姿を目で追いながら、甲板から更に身を乗り出した。
これ以上は落ちてしまうというぐらい。
「どうかしら……それより、影が消えたわ。……どこに逃げたのかしらね」
 サラエは目を細めて、もう一度海底に目をこらした。

「どうだ?」
「上にいるのは帆船ですね。ヒトは乗ってるみたいです。素で飛び込んできましたよ」
「本当にヒトか? 接触したのか?」
「我々が留守の間に、宇宙人が飛来して地球に住み着いたとでも? ただまあ、地上がど
ういうことになっているのかわからないんで、今回は海の中でのファーストコンタクトは
避けました。話してきたほうが良かったですかね?」
「海の中で喋れるんなら、ヒトじゃねーよ。だがまあ、ありえないとは言えないぜ。なに
しろ地球の上では計算以上に時間が流れた……六十五万年も経ったみたいだからな。それ
だけ時間があれば、なんだって起こるさ……俺たちの時間は、千年だったのにな」
 マークは肩を竦めた。
「私たちは、そのほとんどは寝てたわけだから、千年って言ってもね……結局千年孤独を
味わったのは、ヤエたちだけでしょう。これほどかかるとは、最初には思いませんでした
からね」
 リーは体についた海水をよく拭きながら、マークの顔を見る。リーのボディには防水加
工が施されているが、リーの体は機械仕掛けなので、やはり水は気になった。
 機械仕掛けなのはマークも同じではあるが。
「それだが、イツキとロッカとナナの遺体は確認できた。やっぱり船を降ろしたのはヤエ
一人だったみたいだ」
「……もっと早く起こしてくれれば、少しは私たちも力になれたでしょうに」
 リーのその言葉には、悔しさが秘められている。
 だが、マークは首を振った。
「ヤエは最優先コードを使って、船を降下させてる。先に起こされたところで、俺たちが
船と繋がってるヤエの手伝いができたわけじゃないさ。だいぶ荒っぽい降下をしたみたい
だから、固定ポッドの中にいなかったら、俺たちだって、きっとただじゃすまなかったぜ」
「ああ……それはそうですね。確かに。荒っぽい降ろしかたをしたのは、事実でしょう。
この船、海底に斜めに突き刺さってるんです」
「ほんとかよ」
 ヒトと同じように、マークはぐっと眉間にしわを寄せた。
 無重力の中でも普通に行動できるように設計された船の中にいると、それはよくわから
ないことだった。
「……時間が、なかったか。俺たちが手動で降ろすよりは、まだ安全だったろうからな」
 この船のすべてを、自分の意志で自分の体と同じようにコントロールすることができる
ヤエに誰もかなうはずはないのだ。
「さて、これからどうする? 無茶した分、さすがに船も、あちこちガタがきてるぜ。長
いこと海底に沈んでちゃあ、何が起こるかわかりゃしねェ。手動で外に出られることまで
はわかったが……海底じゃな。俺たちみたいに機械仕掛けのボディでない奴は、今コール
ドスリープから起こしても、ここから出られないだろう」
 マークとリーは、額を突き合わせた。
 二人は、おそらくヤエが最後の意志で目覚めさせたヒトだった。
 ヒトと言っても機械の体である彼らを目覚めさせるのは、多分生身の体で凍れる棺に眠
る人々を起こすよりは簡単だったのだろう。その電源モードを待機から通常に戻すだけだ
ったのだから。
 ただ、他にもリーたちと同じ体の者はいるというのに、二人しかそれを戻すことができ
なかったというところが、ヤエの限界を物語ってもいた。
 ヤエは、そこで力尽きたのだ。
「ヤエは……」
「まだ、完全に機能を停止したわけじゃない。意識はないんだろうがな……ヤエの機能が
完全に止まれば、船も第二操縦室のアクセスを受け付けるようになるだろう」
「ヤエの機能が完全に止まるのを、待つしかないんでしょうか……ひどい話だ」
 リーは眉間のしわをマークよりも深くして、首を振った。どう否定したとして、現実が
変わることはないのだろうが。
 ヤエは最後に自分の命令を最優先に処理するコードを用い、船を地球に降下させたのだ。
それが一番早く間違いなく、船を操る方法だったからだろう。
 ヤエが最後に使ったコードはこの船に対して最も強い権力を持ったものだったので、そ
れの効力が残る限りは他のどんな命令も、この船は受け付けない。
 しかしヤエは、それを解除する前に意識を失ってしまったのだと思われる。それが解除
されるには……ヤエ自身の命令か、ヤエの生命体としての完全な沈黙が必要だった。
「あの子の死を、祈らなくちゃならないなんて」
 たとえ人造の生命であろうとも……宇宙を旅した仲間の死を願わなくてはならないこと
を、リーはデータ化された心でも、苦悩した。

「誰もいない? 確かか?」
 その時間、潜っている者は誰もいなかった。影を見失って、水から上がってきたコーラ
ルの元に届けられた報告は、そういったものだった。
「……なら、あれは」
「エラ呼吸のできるヒトかもしれませんわね」
 サラエの声が少し笑いを含んでいるのを、コーラルは視線でわずかに咎める。
「ふざけているわけではありませんわ。私たちの専攻は、古生物学。ヒトの研究が主です
のよ。それが本当なら、新しい発見だわ」
「本当なら……ですね。ですが、外に出てこられるぐらいなら、なぜ船を動かさないので
しょう。あれは水中では動かないというものではないと……思いますが」
「壊れて動かないのかもしれませんわ」
「そうだとしても、なぜ出てきたのは一名だけだったのでしょう」
「私たちには考え及ばぬ事情があるのかもしれませんわね……疑えば、きりがありません」
 コーラルが疑っているのは、誰かが黙って潜っていたことをだ。なら、コーラルが飛び
込んだら、逃げた理由も納得はいく。
 サラエの言葉は、事態を荒立てないという意思表示でもあったので、コーラルはここは
サラエの意見に譲ることにした。
「……最後に一つだけお聞かせ願いたい」
「何かしら?」
「さきほどのご意見、本気でしょうか」
 サラエは優雅に微笑んだ。
「ヒトにエラ? 絶対にないという保証も、今はどこにもありませんから」
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