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 割と良い子揃いの宝高も、恋愛の花は多種多様に咲いている。自分からしてその徒花の
一つなんだから、他人のことは言えない。
 自分がその一つで、相手が宝高に燦然と君臨する王様の椿君だっていうところが、自分
でも未だにどうしてこうなったんだかって気はするけれど。
 ともあれ。逢い引きを覗くつもりはないけれど、色々な部活の動向とかを探っていると、
そういうものを垣間見てしまうことはある。
 それをしている人物が特殊だったりすると、そこから派生する人間関係に興味が湧くこ
とはあるけれど、それ自体には興味がない。なので逃げられない場所にいて、遭遇してし
まったりすると、ちょっと困る。
 他人の濡れ場は、ちょっとね。
 もちろん逃げられるなら逃げるんだけど。
 ……そして。私は今日は化学室に潜んで、ある人を待ち伏せしていた。
 化学室じゃあ普通に人が来そうなものだけど、目的の人物が来るであろうと思われるの
は化学準備室の方だ。化学室に人が来れば、息を潜めて出て行くのを待つか、準備室側の
出口からこっそり出て行くかするだろう。
 それは見越して、あらかじめ化学室から準備室に繋がる扉の前で屈んで息を潜めておく。
それで動かなければ、高確率で気づかれない。化学室に誰かが入って来たとしても、教壇
の影になっているから扉のところから直には見えない。
 気配を消して、待つこと数十分。
 準備室の引き戸を開ける音が聞こえた。
 耳を澄ませば。
「ここでいいか」
 ……椿君の声がした。
 何故。
 どうしよう、これじゃ目的の相手が入ってこないよ。
 今、準備室に入って、場所替えしてもらうように頼んでみようか。
 そんなことを高速で考えたけれど。
「で、どうすんだ?」
 椿君の、あのからかうような声がした。
 椿君は一人じゃない。
 ということに気がついて、動きを止めた。
「おまえが誘ったんだぜ。なんとか言えよ」
 扉の隙間からじゃ、相手は見えない。
 何か言ってくれれば、誰だかわかるかもしれないけど。
「俺が相手してやろうって言ってんだぜ」
 誰だろうと思った時。
 何か、訳もわからず、思考停止した。
 ――そして。
 私は、気がついたら、そっと化学室から出ていた。

 正直に言えば、あそこで何故相手が一言喋るのを待てなかったのか、相手を確認しなか
ったのか、悔やまれる。
 悔やまれるんだけども、そうしなくて良かったような気もする。
 いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていたと言えば、そうで。
 頭のどこかで予想していたことが起こっただけに過ぎない。
 あれは世間一般に言うところの浮気現場ってやつなんだろう。
 ぶっちゃけ椿君は以前から人前でやることが変わってなくて、元々スキンシップ過剰だ
から、実は私たちが付き合っていることを知らない人も多い。椿君は隠してないけど、聞
いても信じない人が多かったりもする。
 なので椿君の人気は衰えることもなく、大体は偶像的崇拝だけれど、時々チャレンジ
ャーも現れる。
 だから、いつかこんな日が、と。
 浮気するくらいなら、友達に戻ろうとか言ってくれたほうがいいんだけどな。
 でも、前に浮気疑ったら……って、そんなつもりで言ったんじゃなかったけど、そう取
れるようなこと言ったら怒られたし……
 でも、椿君、流されるタイプじゃないし。
 そうしてもいいって、思った相手なんだろう。
 私は、この場合、怒ってもいいんだろうか。
 怒って……別れる?
 いや、ないな。
 別に怒ってるわけじゃない。
 なんだかモヤモヤするけど、それは椿君の興味が他の誰かに移ったことが寂しいからだ。
 でも、寂しいけど仕方ない。
 ……仕方ない。
 私から振るとか、図々しい。
 やっぱり、あれかな、あっちから言ってもらうべきか。
 うん、椿君から言うべきだよね。
 用済みだって言うんなら、仕方ないんだから。
 そうすると、やっぱり相手を確認しなかったのが悔やまれる。
 この場合の手順としては、事実を確認しあって、椿君にどうするか言ってもらうわけだ
から。相手が確認できてないのは、微妙だ。
 だとすれば……私がこれからするべきことは、椿君の相手を確認することだ。



「なんだよ、先帰ってろって」
「ちょっと用あるから」
「なんだよ、また目立つから離れてろってのか? それならいつも終わるまで待ってるだ
ろ? ついてくまではしねーんだから、待つくらいさせろよ」
 相手を確認するためには、椿君を一人にしなくちゃならない。私が一緒にいたら、会わ
ないだろうから。
 そう思って、そうなるように仕向けてみても、なかなか上手くいかなかった。
 来るなって言わなきゃ、ついてくるし。
「うーん、じゃあ、ちょっと遅くなるけど」
「遅くなるなら余計だ。暗くなってから一人で帰るのは危ねーだろが」
 ……いつもの過保護と変わらないなあ。
 結局私は椿君を待たせて……
 部室に残った椿君の張り込みをした。

 一日目。
 何もなし。
 部室でマンガ読んで待ってるだけだった。

 二日目。
 何もなし。
 一日目に同じ。

 三日目。
 動いた!?
 ……と思ったけど、校内をぶらぶらしただけだった。
 生徒会室の前とか放送部の前とかパソコン部の前を通ったけど、本当に通り過ぎただけ。
 どこかで連絡取ったりする様子はない。
 メールかなんかで呼び出された感じもない。
 そして、そのまま部室に戻ってきた。

 四日目。
 また校内巡回。
 これ、なんか意味あるのかな……?
 でもこういう風に調べるのは、さすがに効率が悪いような気がしてきた。
 もっと気長にやるべきだろうか。
 もし……万が一、一回こっきりとかいう約束だったら、二度目はなかったりするんだろ
うか。
 その場合は、誰だかわからず終い?
 ……問い詰めて聞いたら、答えてくれるのかな。
 やっぱり言わないかな。

 五日目。
 また校内巡回?
 なにしてるんだろう……と思ったら。
 いきなり、ダッシュした!
 ……まかれる!
 と思って、追いかけて走る。
 そして廊下の角を曲がったところで。
「苗床」
 ――待ち伏せられていた。
「おまえ、何してんの?」
 ……尾行してたこと、いつから気がついてたんだろう。

 で。
 現在、部室で取り調べ中。
 異様な雰囲気を察してか、その途中でやってきたお恭先輩は入口でUターンして帰って
いった。
 でも、尋問を受けてるのは私の方……
「なんでおまえ、俺のことこそこそ尾行してんだよ」
 なんかおかしくない!?
 問い詰めて聞くんだとしたら、私が椿君に、じゃないの?
 でも、椿君に問い詰められると焦る。
 なんだか私が悪かったような気がして来るから不思議だ。
 冷や汗が出る……!
「い……いつから気がついてたの?」
「おまえが今何してんのかと思って、校内回ってみたら、俺のこと尾行してるのに気がつ
いた。だから二日前だな。ずっとしてたのか?」
「……ううん、四日前から」
「遅くなるって言い出した日だな。俺のことを尾行するためだったのか? いったいなん
だって」
 ……これは、尾行される心当たりはないってことだろうか。
 私が気にするとは考えてない……?
「ええと」
「うん」
「その」
「なんだよ」
「五日前に化学準備室で」
「…………」
 あ、黙った。
 これは私が知ってると思ってなかっただけ?
「偶然、その、化学室にいたら聞こえちゃって」
「……聞いてたのか」
 椿君はバツが悪そうに、顔を顰めた。
「でも、それでなんで俺がつけられるんだ?」
 ……あれ?
「うん。だから、もう一度会うかなって思って」
「会わずに済むなら、二度と会いたくねーけどな」
「え、それは酷くない? 一応好みなんでしょ?」
「好み!?」
 なんだそれは、と椿君はものすごく嫌そうな顔を見せた。
「あれが俺の好みだとか、おまえ大丈夫か?」
 ……好みじゃないの?
 好みじゃない相手と浮気するとか、椿君は本当に時々理解に苦しむよ。
「私は、聞いたのはちょっとだけで、相手が誰だかわからなかったから……好みじゃない
の?」
「……? 相手が誰だかはわからなかったのか?」
「うん」
「……おまえ、化学準備室で俺が何やったと思ってるんだ?」
「……浮気じゃないの?」
「ば」
 あ、やばい。
 と思って、慌てて耳を塞いだ。
「ばっかじゃねーの!!」
 ……耳を塞いでも、頭に響くような声で怒鳴られて。
 カッとして怒鳴り返す。
「ばっかじゃなかろうか! なんで浮気された方が怒鳴られなきゃなんないのさ!」
「おまえが底抜けに馬鹿だからだ! なんで俺が城蘭の野郎と浮気しなくちゃなんねーん
だよ!」
 ……は?

 えーと。
 あの時、化学準備室で一緒にいたのは城蘭聖だったらしい。
 証拠が欲しいなら一緒に城蘭聖に聞きに行くかと言われたけど、丁重に辞退した。
 椿君の浮気を疑ってるんですが、いついつに椿君と一緒にいたのはあなたですか。なん
て、浮気が事実だとしても城蘭聖に聞きたくないよ。
 そういうわけで。
 浮気疑惑は、白紙に戻ることになった。
 椿君がないって言うんなら……ないんだろう、きっと。そして真実がどっちでも変わり
ない。
 そして、何故か尋問は続いている。
 椿君は隣に座って、いらいらを象徴するようにテーブルを指で叩いていた。
「おまえ、俺がもし本当に浮気してたとして……証拠掴んだらどうするつもりだったん
だ?」
「自分でどうするってつもりはなかったけど……椿君が私と別れたいなら別れるつもりだ
った」
「…………」
「他の子が良くなったんなら、しょうがないじゃん?」
「……ありえねーよ」
「そうかな?」
「おまえは! どうしたかったんだ?」
 自分がどうしたかったかと繰り返し問われて、私は思考停止した。
 ……ない、という結論に行きかけて。
 そして、気がついた。
 ないんじゃない、考えないようにしてたんだってこと。
 本当は、どうしたかったのか。
「別れたかったのか?」
 怒ってるような、泣きそうなような、そんな椿君の顔を見て。
「ううん」
 自分がどうしたかったのか、やっと固まった。
「椿君がそうしたいなら仕方ない、けど」
 視線も手も、行き場がなくて、あっち行ったりこっち行ったりさせて。
 はっきり言うのは恥ずかしかったから、椿君の服掴んで引き寄せて、小さい声で言った。
 別れたく、ない。から。
「……捨てないで」
「…………」
 しまった、椿君が黙った。
 失敗した……!
「い――今のなし!」
 やばい、顔が熱い!
 熱出てる、熱出てる、沸騰してる!
 でも椿君は、だんだん笑って。
「ばっかじゃねーの、なしになんかなるか」
 ぱふっと椿君の胸に抱き寄せられた。
 なんか頭突きでもするような、斜めになって椿君に寄りかかるような格好になって、じ
たばたしたけど逃げられない。
「絶対忘れねー。一生忘れねーな」
「わ、忘れてよ……! 人生の黒歴史これ以上増やしたくないってば!」
「俺の人生はバラ色だからいーんだよ」
「なんで!」
「そんなん、苗床がいるからに決まってる」
 ようやく体勢を少しずらして椿君を見上げたら。
 ……キスが降ってきた。
 キスしたまんま、宙に浮いたかなって思ったら、椿君の膝の上に乗っけられている。
「つ――椿君、学校では」
「もうお恭先輩も今日は戻ってこねーよ」
「誰か覗いてたらどうすんのさ! ……私みたいに」
「覗かせとけ」
「やだ!」
「諦めろ、浮気疑ったのはチャラにしてやるから」
「寒いって」
「すぐ暖かくなるから、ちょっと我慢しろ。そんな嬉しいこと言ったおまえの、自業自得
だ」
「つば……」

 ……もう、絶対言わない。
 と、心に誓った冬の放課後のことだった。

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