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 貴族の娘なんてのは、容姿がちょっと駄目なくらいだったら化粧やらドレスやらで、大
体どうにかなる。ちょっと見てくれが悪くても、華やかであったり、そこそこ社交的であ
ったりすれば社交界は渡っていけると言い直してもいい。
 でも残念ながら、地味さや性格というのは割とどうにもならなかったりする。
 けれどそんな地味令嬢にも幸いなことに、世の中は身分ではない価値観に流れつつある。
 身分ではない価値観とは、お金だ。
 まあ昔からそうだと言えばそうかもしれないが、この時代、それが顕著になってきてい
る。
 金持ちの平民が台頭してきていると言うよりは、身分に頼った貴族たちの家が次々と傾
いているのが実情かもしれないが。そしてまだ少しは身分信仰が生きていて、平民は金で
身分を買いたがる。
 容姿が駄目でも、性格が地味でも、身分さえあれば良い連中もいるから、相手を問わな
きゃ嫁にはいける。傾きかけた家が資産目当てで成り上がりに娘を嫁にやるだけだったら、
身分があれば後はどうでもいいくらいのものかもしれない。
 世の中、上手くバランスが取れているようだ。
 ……あ、別に私は嫁に行きたいわけじゃないけどね。
 私は見た目地味、性格地味で、どうにもならないタイプの筆頭の伯爵令嬢だ。家は例に
漏れず傾きかけている。だからと言って、別に悲観はしていない。
 世の中の価値観がお金に支配されるなら、自分の才覚でそれを稼げばいい。必ずしも金
持ちのところに嫁にいく必要はない。
 嫁に行かずに、女が家を嗣いだって良いじゃない。うちは女二人の姉妹だし。どうして
も必要があるなら、名前だけの婿養子を取ってもいい。姉さんは真っ当にお嫁にいくから、
跡継ぎは養子貰っても良いしね。
 ただ、この計画には若干の問題がある。
 お金を稼ぐと言っても、何もないところから始めるのは難しいということだ。お金は湧
いて出て来ないので、商品が必要だ。
 まずは元手を用意する、あるいは元手のかからない商品を用意する必要がある。やっぱ
り何もないところから魔法のように元手を用意することは難しいので、元手のかからない
商品を用意することになるだろう。
 元手のかからない商品……その名は、情報。
 そして家に黙って座っていたのでは、情報は入ってこない。けれど社交界で情報が集ま
ってくるほど華やかに上手く立ち回れるなら、そもそもこんな結論にはならない。それ以
外の場所は、まだまだ男社会で女の立ち入る隙がない。
 ではどうするか――女しか行けない場所で、直接お金やコネになりそうな情報の潜んで
いる場所が、この国には一つだけある。
 それは、国王陛下の後宮、だ。



「お母様、心配性すぎ」
 後宮に入って、あてがわれた部屋の窓から外を確認しながら、後宮に入りたいと言った
時の母親の悲鳴を思い返した。
「すぐ帰ってくるって言ったのに」
 もっとも普通は後宮に入って、すぐに帰るなんて無理だから、母親の悲鳴の意味も理解
はしている。政治の場と同じくらい権謀術数溢れる後宮に、娘を一人送り込むのは心配だ
ろう。
 これで送り込む娘が絶世の美人だとでもいうのなら、王の目に留まって我が世の春を…
…という可能性もあろうものだが、私じゃその可能性は万に一つもない。
 とすると、お付きの者一人つけることもままならないほどの貧乏伯爵家では、後宮に娘
を送り込んで嬉しいことはと言えば、食い扶持が一人減るくらいのものでしかない。
 娘が酷い目に遭う心配に比べたら、ささやかすぎるメリットだと思っても仕方ないとこ
ろだろう。
 だけど私は、すぐ帰るというのも本気だった。
 そんな方法は、いくらでも思いつく。集めた情報を使えば、ここから出て行ってくれと
心底思われるように仕向けることだって可能だろう。そのくらいのことはできるつもりだ
った。
 手始めの情報を集めに来たのだから、ここから出ることもできないくらいに情報が集ま
らなかったとしたら、それはもう根本的に失敗だったということだ。その時は無意味に帰
って実家の食い扶持を増やすより、ここで食べさせてもらった方がマシだ。
 僅かな荷物を解いて片付けると、私は部屋を出た。
 入る時に受けた説明によると、後宮という名で括られた中の共同の施設を利用する分に
は、行動範囲自体はほとんど制限されない。
 正面切って他の寵姫の部屋を訪ねたいと思えば、もちろん贈り物だのご挨拶だの面倒臭
い手順が必要になるけども……まだそれには早い。
 まず私がすべきことは、建物の構造を頭に入れることだ。
 最初にサロン、談話室、図書室を巡る。
 サロンには人がいなかったが、談話室には僅かながら人影があった。
 おっとりとした感じの上品な美少女が、会釈をしてきた。でもキツそうな侍女が睨みつ
けてきたので、早々に立ち去ることにした。
 次に図書室。こちらにも人はいなかった。
 ただ、本の量には感心した。
 図書室は代々後宮に住んだ寵姫たちが残していったものを納めただけの場所らしいが、
かなり偏りはあるけれど大した量の蔵書だった。金持ちの家から後宮に入った寵姫は図書
室に本を寄贈することはあっても本を借りていくことはないだろうが、中には貧乏人もい
るし、主の名で借りて使用人が読んでいることもあるだろう。
 他人の本だったものというのは、興味深い。今はもういない寵姫の残した、本。あるい
は今の寵姫の誰かが借りて戻した本。古すぎて意味を成さないものもあるかもしれないが、
伝統を重んじる風潮がまだ生きている間なら。
 何冊かぺらぺらと捲った。
 随分、時間が必要になるだろう。今は一日目で、これに着手するよりも先にやることが
ある。
 本を棚に戻し、私は図書室を出た。
 厨房の方に向かうか、庭に向かうかを少し迷って、庭に出ることにした。
 思ったより人気がないことに、少し首を傾げる。
 恋敵というか、政敵というかな他の寵姫と顔を合わさないように、部屋に引き籠もって
いるんだろうか。
 今、後宮自体は、満員御礼のはずなんだけどな。
 実はまともに社交界に出ないまま後宮に来てしまったので、自分の相手である王の顔を
知らなかったりするのだけれど――いや、相手って言うのも烏滸がましいか。今の王は若
く優秀で、しかもとんでもない美形だという話で、今の後宮は希望者殺到の順番待ち状態
らしい。
 後宮で順番待ちってなにごとって感じだけど、後宮も部屋の数には限りがあるので、希
望する者すべてを受け入れるわけにはいかないということだ。私が順番待ちをかなり飛び
越えて後宮に入れたのは、伯爵令嬢という身分のおかげだ。
 使えるものは、使えるときに使わなきゃね。
 順番待ちという事実は来る前から知っていて、それが私が帰りたいと思った時には家に
帰してくれる後押しをしてくれるという読みもあって、ここへきている。
 庭に出ても、人気がないのは同じだった。衛士と庭師、そして行き交う女官くらいの姿
しか見えない。
 人のいるようなところで大事な話はしないだろうけど、この引き籠もり具合だと情報を
集めるのにはなかなか手間がかかりそうだ。
 厨房を回ってから、いったん部屋に戻ろうかと、私は建物の中に戻った。
 明るい外から戻ったから、建物の中が酷く暗く感じる。目が慣れればすぐ見えるように
なると思って歩き出そうとしたら、廊下を歩いて来る人影に気がついた。やがてすれ違う
と思ったけれど、使用人だと思ったし、そうでなくても別に誰だろうと関係ないと思った
から気にせずそのまま歩いて行ったら、すれ違う少し手前で相手の方が立ち止まった。
 やっぱり使用人で、道を空けてくれるのかと思ったら、廊下の真ん中で立ち塞がるよう
に立っている。しかもでかい。……そこで女じゃない、男だ、と気がついたけれども、後
宮一日目とあって、男性が廊下にいることの違和感はスルーしてしまった。
 どいてくれないから、自分で避けて通り過ぎようとした。
「おい」
 だけど腕を掴まれて、黙って通り過ぎることはできなかった。
「黙って行く気か?」
 挨拶を強要しようというのか、と、ちょっとムッとしたが。
 腕を取られて引き寄せられたから、ようやくその男の顔がちゃんと見えた。
 ものすごい美形だった。
 ……しまった。
 そこで気がついたけど、後宮をうろうろしてる男って言ったら国王陛下じゃないか。
 ……まあいいか、別に玉の輿に乗りにきたわけじゃないんだし。不興を買っても、物理
的に首を切られない限りは問題ない。むしろ嫌がられた方が、面倒ない。
「申し訳ございません、国王陛下。外から戻ったばかりで、良く見えておりませんで気が
つきませんでした」
「通り過ぎる前には見えただろうが。それで避けたんだろ」
 ち、心が狭いな。
 それに気がついてても、度量が広い男なら、多めにみてよ。
「お顔は見えておりませんでした」
「見ない顔だが、新入りか。今日来るってのは苗床家の娘だったか」
「はい、本日よりこちらの末席に参りました、苗床家のかのこと申します」
 面倒臭い。
 っていうか、早く腕離してくれないかな。
「顔が悪い女だって話だったが、それ以上に地味だな」
 余計なお世話だ。
 ……いや、複数いるって言っても自分の嫁なんだから、顔は気になるか。
 声にはしてないけど、言い直そう。
 悪かったね、地味で。
 うっかり閨に呼んでからじゃなく、ここで会ったのはかえって幸運だったと思って、私
のことは綺麗サッパリ忘れてくんないかな。
「ふうん。供も連れずに何してるんだ?」
「供は連れてきておりません。……初めての場所は、すべて確認することにしているので
す」
「へえ。一人でか」
「一人でです」
 いい加減に、腕離してくれないかな……
「あの」
「なんだ?」
「はばかりに参りたいので、急ぐのですが、手を離してもらえませんか」
 はばかりは、お手洗い。行きたいって言うのは、嘘だけど。
「ふーん」
 ふーんって、トイレ行きたいって言ってるのにノンビリした返事じゃないの。
「……わかった、行っていいぜ」
 ようやく、手を離してくれた。
 王だからしかたないけど、行っていい、とか、上から目線でムカつく……!
「失礼いたします」
 でももちろんムカつくとは言わずに、きちんと礼をして立ち去った。



 広い後宮の構造をすべて把握するには、どうしても時間はかかる。一日二日で全部わか
るものではない。いや、通り一遍の構造なら一日もあれば足りるだろうが、人の目につか
ない場所を把握したり、人の目につかないように立ち聞きしたりできる場所を把握するに
は時間がかかるということだ。
 この引き籠もり後宮で朝も夜もうろうろしていたら目立つので、出歩く言い訳は主に
「図書室に本を借りにいく」を使うことになった。図書室に行けばやることもあるし、行
きと帰りで途中に散歩をしてみたり、途中で迷ってみたりしながら後宮を歩き回る。
「お、これは」
 私が後宮に来てから数日後、図書室で本を選ぶ振りをしながら本を捲っていた時に、初
めて、もしかしたらあるのではないかと思っていた物を見つけた。
「……新しい」
 あるのではないかと思っていたものは、第一に本への書き込み、第二に手紙が挟まって
いることだった。
 後宮という所は、そもそもただ一人の国王という男を巡って女が鎬を削る場所だ。女と
その実家の栄華を賭けて、どす黒い抗争が展開される場所でもある。
 我が家の今の代……うちの父母は年頃の娘が二人いても、そこに積極的に参戦しようと
思わなかったようだけれど、普通は違う。我が家も先祖は後宮に娘を送り込み、権力を握
った歴史を持っている。だからこその伯爵家だ。
 娘を持つ貴族なら、一度は考えるだろう。娘を持たなかったなら、器量の良い娘を養女
にしてでも考えるだろう。
 王家から見れば、後宮はたくさんの女に子どもを産ませて直系の血筋を絶やさないため
の物。母親の実家……後見人による争いも絶えないが、それでもこの国にそれが昔から連
綿と続くのは、この国の王家はどうも女系で王子が生まれにくいからだと思われる。
 下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるの理屈で、十人も二十人も産ませれば王子も生まれるだろ
うということだ。ちなみにこの国では、女よりも男の方が王位継承権は高い。
 そういうわけで王家に生まれた男子の最大の仕事は種馬……いや、子孫繁栄に精を出す
ことになる。女の側は王に選ばれなければ国母になる可能性はないので、隣人よりも自分
をと売り込み、他の女はできれば排除しようということになる。
 余談だが、今の後宮が引き籠もりの集団になっているのは、あの美形の国王陛下が後宮
の女たちの自己主張の強い売り込みに辟易して、
「出しゃばりは嫌いだ」
 とかなんとか、最近言ったせいらしい。
 厨房での立ち聞き情報だけど、信憑性は高そうだ。
 そのせいで、現在はみんな右に倣えで「慎ましく清楚に」を実践中という話。
 いつまで続くのかはわからないが。
 そしてやっと話が戻るが、今の『おとなしい後宮』は実は一過性の物だということだ。
近い過去においてすらも、そうではなかった。今より激しく、足の引っ張り合いが展開し
ていた。
 直接の毒の応酬のような命を賭けた戦いもあっただろうけれど、手紙や間接的な方法で
の嫌がらせもあっただろう。争いごとというのは、最初は程度の低いものから始まるもの
だ。果てには、血みどろの歴史になったとしても。
 さて世の中には自分の日記に愚痴を綴る人もいれば、人の目に触れることを期待して人
の目に触れそうな物に愚痴を書き込む者もいる。
 また別の目的では、誰かの悪評を間接的に広めたいような場合に、やはり人の目に触れ
そうな物に書き込む者もいる。
 古い本って、意外に前の持ち主の関係ない書き込みがあったりするものなのだ。
 そして、本というのは他の紙を挟みやすい形態でもある。いやがらせの手紙を挟んで渡
す、なんてのも古典的だ。手紙をただ届けるよりも、直接手に渡りやすい。手紙はチェッ
クしやすいので、気の利く侍女がいれば、そこでショックを与えたい相手の目に触れるこ
となく処分されてしまうからだ。
 ただこれは、本を渡された相手がそもそも本を読まなかった場合、見つかることなく本
の間に眠ってしまうこともあるだろう。
 私が探していたのは、つまりそういうものだ。
 見つけたら、もちろん誰が書いた誰宛のものだったのかを突き止めるつもりだった。も
のすごい古いものであっても、その家が今もあるなら、それは十分に効力を発揮してくれ
るだろう……過去の拭い去れぬ事実は、代が替わって言い訳が効かなくなったことで、よ
り効果的に使えることもある。
 そんな思惑で、私は図書室の本を漁っていたのだ。
 そして、見つけた。
 もちろん一つで満足することはなく捜索は今後も継続するけれど、一つ目の発見は喜ば
しい。
 しかも新しそうな手紙だった。封を開けられた気配もない。挟んで渡して、本そのもの
を読まずにスルーされたケースか。
 ここで開いて見ていて誰か来ても困るし、新しいとなると心当たりのある人物がまだ双
方後宮内にいる可能性があるので、元の本から手紙を抜いて、手近な別の本に挟み込んだ。
そして、今日はそれを借りて部屋に帰ることにする。

 もちろん図書室の行きと帰りは、その他の情報収集にあてる時間だ。
 本は万が一にも挟んだ手紙を落とさないように背表紙を下に向けて持ち、今日は庭に出
た。庭から近づける部屋の話を、どれだけ外から聞き取れるのかを確かめておきたかった。
 現在の後宮は満員御礼だから、一階の部屋にも国王の訪れを待つ娘が住んでいる。おそ
らく普段は使わないような部屋も、あてがってある。
 私は家だけ見たら、そこそこ身分があるから二階の部屋だ。部屋が空いていたわけじゃ
ないだろうから、入る時に多分誰かを追い出しただろうと思う。
 身分とか色々で、良い部屋とそうでもない部屋が割り振られているんだろう。
 まだ正確に住人全員を把握はできていないが、一階の狭い部屋には、そんなでもない身
分の娘が住んでいる。身分が低い彼女たちは、偏見もあるかもしれないが概ね二種に分か
れているかと思われる。
 向上心と野心とヤル気に溢れた女と、家の事情か何かで送り込まれたけれど、そもそも
その気がなかったり諦めが入っていたりする女だ。
 その口が硬いか軽いかは個性になるが、外から立ち聞きできるなら、ぐっと情報収集し
やすくなる。
 草を踏まないように、足音を消して、壁際に寄った。
 壁際よりに、進んでいく。
 そして、部屋の住人の声が聞こえた所で足を止めた。
「……もう! どうして私がこんな狭い部屋に移らないといけないのよ! 私じゃなくて
もいいじゃないの……! 桃香さんだって身分的には同じくらいなのに!」
 ……しまった。
 最近の新入りは私一人だろうから、部屋を移らされたと言うこの部屋の住人は、まさに
私の後宮入りのとばっちりを食らった女性か。
 ……どうしよう。話は聞きたいけど、もしここで窓際に寄られて見つかったら、修羅場
の当事者になってしまいそうだ。それはいただけない。
 ……もうちょっと窓近くまで寄り切ってしまえば、逆に見えないかな。
 誰も見ている人がいなければ……
 そう思って、辺りを軽く見回しつつ、声の聞こえた部屋の窓に寄ろうとした時だった。
「おい」
 真後ろから声がかかって、飛び上がって振り返った。
 なんて、間の悪い……!
 そして振り返って、間の悪いじゃ済まない相手を視認した。
「何してんだ、そんなとこで」
 黙れ!
 黙ってくれ!
 今、この部屋の住人が気がついて外を覗いたら、ただの修羅場じゃ済まないかもしれな
い!
 そう思って、声の主……この後宮の主である国王陛下の前まで一気に走り寄って、その
袖を掴んだ。
 そして、黙ってくれというわかりやすいジェスチャーを見せる。口の前に指一本立てて。
「……お前、何してんだ、本当に」
 陛下は怪訝な顔を見せながらも、声は潜めてくれた。
 ……部屋の方をちらりと振り返る。
 窓から部屋の住人が顔を覗かせる気配はない。
 でも、ここで立ち話は危険過ぎるだろう。もっと離れなくては。
 私は掴んだ袖を引いて、庭の奥の方へと歩こうとした。怒られても仕方がないし、それ
は別に構わなかったが、意外に素直に陛下は一緒に付いてきた。
「……本当に何してたんだ?」
 十分に離れたところで、もう一度問われた。
 我が国の国王陛下は顔だけではなく、察しもよろしいようで、私があの場所から離れた
かったことは理解してくれたらしい。
「あーいやー……」
 しかし、どう説明したものか。
 部屋の話が立ち聞きできる場所を探していました、は、まずい。
「……あの部屋の方は、私が後宮に来たことで、元の部屋を立ち退かされたようでして…
…花を愛でて歩いていましたところ、そんな声が聞こえて」
「花を愛でて?」
 ……まず疑うところは、そこなのか……?
「ええ、花を愛でて」
 いや、ここで退いたらだめだ。
「そうしたら、部屋を移らされたと、そんなお話が聞こえましたので、つい」
「つい、立ち聞きしようと?」
 ……いったい、どこから見てたんだ。
「陛下は、何故あのようなところに」
 これは話を変えて誤魔化すに限るな。
「俺は目的の部屋に行ったら誰もいなかったんで、どこに行ったんだかと探してたところ
だ」
「それはその部屋の娘は不運でしたね、陛下のご来訪に折に部屋を不在にしているなん
て」
「そう思うか?」
「はい」
 よし、話逸れたかな。
 あまり長いこと立ち話してて誰かに見られて変に勘ぐられてもなんだし、さてこの辺で
去りたいところか。
「……それでは、私は部屋に戻りますので」
「今から戻るのか」
「はい」
「じゃあ、一緒に行くか」
 ……はい?

 国王陛下は、部屋まで本当に私に付いてきた。
 何に興味を引かれたのかわからないけれど……あれかな、美人を見慣れてて、物珍しい
んだろうか。珍獣扱いか。
「本当に、何もおもてなしできないんですが」
「構わないぜ」
 戸口で、そう確認したにもかかわらず。
「茶も酒もないのはしかたないにしても、水差しくらいは置いておけよ」
 入った途端に飲み物を要求する図々しさ!
「私一人で、留守を守る者もいませんので、口をつけるものを置き去りにするようなこと
はしたくありません。留守中誰が忍び込んで、毒を入れるかもわかりませんし。必要なら、
必要な時に厨房に貰いにいきます」
 私がそう返すと、陛下は一瞬びっくりしたような顔をして、それからニヤリと笑った。
「そりゃそうだな。ここはそういう場所だ」
 そして勧められもしない椅子に、どっかりと座る。
 長居する気満々だな……
「で、そんな危ない場所に、何を望んで自ら突っ込んできたんだ?」
「……は?」
「苗床家の娘は、志願だって聞いてたぜ。自分で望んで、ここに来たんだろ? 何が目的
か言ってみろよ。叶えてやる」
 ……何が目的って。
 どういうつもりだ、この王様は。
 いや、一般的には後宮に自ら望んで入る目的は一つだ。国王に見初められて、寵姫とし
て、身分次第では正妃として、国母になるためだ。
 だけど、それを真っ正直に言うものか?
 それに、私は違う。後宮へは情報収集に来たのであって、華を競いに来たわけじゃない。
しかしそれも、問われて真っ正直に語るようなことじゃない。
 どちらを語るのも、よろしくない。
 叶えるという言葉を信じるとしても、信じないとしても。
 一般的な目的を語ったとしたら、それはそういう情けをねだることだ。もし予想に反し
て本気だったとしたら……想像もしたくない。
 真実を語ったとしたら、何が起こるかわからない。そもそも、脅しのネタを探しに来た
とか他人に言うなんてありえない。
 ……大嘘は、容易く見破られる。
 嘘を吐くのなら、八割は真実を混ぜて、だ。
 嘘を吐くための息を吸った。
「……お恥ずかしながら、我が家の家計は大分窮してきておりまして。役に立たぬ穀潰し
の身を恥じ入り、せめて自分の食費だけでも軽くできたらと」
「伯爵家だってのに、娘一人の食費にも窮するほど苗床家は切迫してるのか?」
「時勢は身分だけでは立ち行かぬ方向へ傾いております」
「確かにそうだ。じゃあ、お前は家を救いたかった、ということだな」
 そうだ。
 それは事実だ。
「そうです」
「わかった」
 わかってくれたのか、と、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間のことだった。
「約束通り、叶えてやる」
 最上級の造形を惜しみなく笑顔にして、国王陛下は立ち上がった。帰るのかな、と一瞬
思って、うっかり笑顔を向けたら。あれ、と思う間もなく長い腕に引き寄せられて、その
腕の中にすっぽり収まっていた。
 あれあれ、と思ってるうちに、私を腕に抱いたまま陛下は迷うことなく寝室の扉を開け
て、奥に踏み込んだ。
 なんで寝室がどこか知って……って、後宮の部屋の構造なんて、私よりこの人の方が詳
しいのは当たり前だ。
 それより、なんで寝室に……って、えーと、ここが後宮で、私がその住人で、この人が
王様だと、理由が一つしか思い当たらないんだけど。
 本当に?
 本気なの!?
「ちょっとまっ……!」
 遅まきながら国王陛下の腕の中から逃げようと暴れたところで、身体が宙に浮いた気が
した。
 え、と思った時には、ベッドの上に着地している。
 放り投げられたらしい。
 そしてもちろん逃げる間もなく、覆い被さられた。
「待って……!」
 慌てて押しやろうとしても、びくともしない。体格差が大きすぎる。
「どうした?」
 でもその艶のある声が耳元で囁かれた時、そこに潜んだ嘲笑の響きを感じ取った。
 顔を見る。
 笑ってる……!
 からかわれてるんだ!
「からかうのはやめてくださいっ」
「からかってなんかいないぜ」
「そんな気もないのにこんなこと」
「そんな気がないなんて、どうしてわかる? 約束したろ? 目的を言えば叶えてやるっ
て。俺は約束を守ろうってだけだぜ」
「こんなことが目的だなんて言ってない!」
「言ったじゃねーか。家を救いに来たんだろ? お前が俺の子を産めば、次代くらいまで
はもつんじゃねーの?」
 そうかもしれないけど、でも……!
「それとも、なにか? 他に目的がある?」
 笑いを含んだ声が、また耳元で響く。
 ……それが目的か。
 はなから信じてないんだ、私の言ったこと。
 後宮に自ら志願して、自分に媚びないのは不自然だから、他の目的があるって踏んでる
んだ。
 もしここで私が余裕で誘いをかけたら納得して興味をなくしたのかもしれないけど、慌
てて逃げようとしちゃったから、そっちで確信を持っちゃったんだ。
 しまった……でも、そんなのないって言って通じる段階は通り過ぎた気がする。
 なんか、順調に脱がされてる。
 どうしよう。おとなしくしてたら、やる気なくなるのかな。でも無抵抗でいたら、その
まま最後までいっちゃう可能性も……駄目だ!
「……言う! 言うからやめて!」
 後から思えば、私は自分の想像でパニックを起こした……気がするけれど、後の祭りだ
った。

 国王陛下は、その、やめてはくれたもののベッドの上から降ろしてはくれなかった。起
き上がることは許してくれたが、そこまでだ。
 ベッドの上に座って、私を膝の上に乗せる形で抱いている。私は半分脱がされたままで、
服を押さえている手を外したら色々貧相な身体が見えてしまうから迂闊に着直すこともで
きず、その状態では逃げ出すこともできなかった。
 まあ、逃げても行き先はない。ここは私の部屋なんだから。
「で?」
「……さっきの話に、基本的には嘘はありません」
「へぇ? じゃあ、続行希望ってことでいいのか?」
 て、背中のボタンもう一つ外されたっ。
「嘘はないですけど、そういう方向で家を救いたいわけじゃなくて!」
「じゃあ、どうやって?」
「ここで色々と、情報を集めて、それで」
「情報……」
 微妙な顔された。
 自分で聞いたんじゃないか。
「陛下には関係ないところでやりますから、ご心配なく。言っちゃった以上、陛下は対象
外です。そもそも弱みを握ってどうにかなるような方でもなさそうですし」
 さて、正直に言ってしまったが。見て見ぬ振りをしてくれればありがたいけど、こんな
目的の者を置いておくわけにはいかないと、後宮を追い出されても仕方がないとは思う。
 その時には、せめて家の迷惑にならないようにしたいが、この陛下は果たして丸め込ま
れてくれるだろうか……
「本物の伯爵令嬢ならまぬけなのは仕方がないと思ってたが、最低限のところは賢明だ
な」
 む。私の、どこがまぬけだって言うんだ。
 それが顔に出たのか、陛下はニヤリと笑った。
「まぬけだろ。俺にすぐおかしいと思われるくらいにはな」
 ……それは否定できない。
 周りに合わせて媚びなきゃいけなかったか。でも私が来た時にはもう、この後宮は引き
籠もりモードだったんだから、普通はどのくらいこの人に媚びるものかはよくわからなか
った。タイミングも悪かったんだ。
「ま、俺は一度は誰でも疑う。お前だけが疑われたわけじゃないから、そこは安心すると
いい。お前は怪しすぎて、逆におかしくて面白かったぜ」
 ……くそ。
「だが、ここで手にした情報で家を救うってったって、自分じゃできないだろ? 家に送
って、父親にさせるのか?」
 あ、よかった。向こうから家との関わりを振ってくれた。
 もちろんこれは否定する。それは真実だし、すべて私一人の責任だ。
「いえ、ちゃんと最後まで自分の手でします。ここで十分に情報を集めたら、それを持っ
て帰ってから、自分でするつもりです」
「帰るって、家に?」
「家にです」
「どうやって」
「正規の手段かそうでないかはわかりませんが、有効な方法で。素晴らしい陛下のおかげ
で満員御礼の後宮ですから、新しい風を入れるには古いものが出て行く必要があるでしょ
う。私が来た折にも、誰か去った人がいたのではないですか?」
「体調を崩して出て行く者は時々いるな」
 去った者が王の寵愛を深く受けていたということはないのだろう。この口ぶりだと、出
ていった者の名前もろくに憶えてはいなさそうだ。
「仮病でも使って、出ていこうってわけか」
「そう思っていただいて構いません」
「いいのか、俺にそんなこと言って」
 言えって、あんなことまでして脅したのは、あなたじゃないか。
「病気だって言っても、出て行くためには俺の許しが要るんだぜ。仮病だとわかってて、
許すと思うか?」
 長い指先が頬を辿って顎を掴み、顔を覗き込まれる。
 視線の先にあるのは綺麗な顔だけど、それ以上の感慨はない。誰でも自分の顔に陥落す
ると思うなよ。
「許さない理由がわかりません」
「ふうん?」
「綺麗で優雅で魅惑的な姫君が、後宮にはたくさんいるでしょう。地味な娘が一人いなく
なることを許さないと言う意味がわかりません」
「綺麗で優雅で魅惑的な姫君なんぞに興味はないな。つまらない」
 ……珍獣を並べておきたいのだと言うことか。
 眼前の綺麗な顔を睨みつける。
「では、入れ替わりに新しく、つまらなくない娘を所望してください。私はやることがあ
るのでお付き合いできませんが」
「……言うじゃないか」
 国王陛下は目を細めると、私の肩を押した。
 押されるままに、私はころんとベッドの上に転がって。
「見逃してやろうかと思ったけど、出てくって言うなら、いるうちに堪能させてもらおう
か」
 また陛下に覆い被さられた。
「な……!」
 ずるい!
「正直に言ったのに……! 言えば叶えてくれるんじゃなかったの!?」
「それとこれとは別の話だろ?」
「やだ……っ!」
「さっきの強気はどうしたんだよ」
 また笑ってる。この人、こうすれば私が慌てると思って……!
 でもでも黙ってると、先にどんどん進んでっちゃう。
 元々半脱ぎだから、あっという間に半裸だ。
 もしかして、女なら誰でも相手ができるって人なんだろうか。子ども産ませるだけが目
的なら、その可能性はあり得る。
 うわあ、だめだ!
 地味で不細工で、今まで男性にそんな風に見られるなんてありえないって思ってきたけ
ど、実はそんな風に見られるのが嫌だったんだ。
 やだもう、勘弁して……!
 私はできる限りの力で暴れたけど、でかい図体の下敷きになってまったく効力はなさそ
うだった。だから口で言うしかなくて。
「お願い、やめて……!」
 懇願のような言葉を悲鳴のように口にして、情けなさで涙が出そうだった。
「……やめてほしいか?」
 私は一生懸命頷いた。
「正直、やめたくないんだが」
「お願いしますっ!」
「女を、こんなに可愛いと思ったのは初めてなんだがな」
 なに言ってんだ、この人は!
「まあ、いい。今日はやめといてやるか」
 ……今日は?
 今日はこれで勘弁してやると、気の遠くなるような口付けをして……そして正気に返っ
た時には、部屋の中には私一人だった。
<続く>

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