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 ミニパトを横に、身を包むのは婦人警官の制服。
 どこからどう見ても、婦警。
 間違えようもなく、婦警。
 そんな私、苗床かのこには悩みがある。
 溜息と共に、呟いた。
「……刑事になりたい……」
「何? お前、刑事志望なの?」
 それを富ヶ丘署の入口から出て来た椿君に聞かれてしまって、しまったと思う。
「俺と一緒に仕事したいわけ?」
 ミニパトの背に寄りかかってもなお高い身長から見下ろされ、目を逸らした。
「んな意味じゃないっての」
 目を逸らしたら、それを引き戻すように顎を掴んできた手を振り払う。
 すんごい気障でセクハラなのに、これが普通でなんの意識もしてないってのもわかって
る。この男、椿初流はそういう男だ。異様なカリスマと美貌のおかげで、誰もそれを咎め
やしない。
 椿君はキャリア組で、今はうちの署の捜査一課で実務中。最初の実務は一年足らずだそ
うで、ノンキャリアの私と同じ署にいるのは僅かな期間の話だ。
 ……同じ高校を出て、同じ大学を出たってのに、私はうっかりミスでキャリア試験に失
敗して、同じく警察官にはなったものの、この差だ。
 そして何故か新任婦警は高い確率で交通課に配属だそうで、私はミニパトを乗り回す
日々を送っている。
「キャリア組はすぐ警察庁に帰るでしょ。万が一私の所属が変わっても一緒に仕事なんて、
あったって数日のことじゃん」
「刑事志望だって言ったじゃねーか」
「椿君と一緒に仕事をするためじゃないってば」
「じゃあなんのためにだよ」
 ツッコまれて、私は唸った。
 馬鹿正直に答えてやる意味はない気もするけど。
「……私服になりたい」
「なんだそりゃ」
「だって制服だと、どう見ても婦人警官なんだもん」
「そりゃ、それ以外には見えねーな」
 椿君はじろじろと私の姿を上から下まで眺めて。
「いいじゃん、婦警」
「どこが」
「制服ってのはいいもんだぜ。なにしろ面倒臭くねーしな」
 椿君は、今はチャコールグレーのスーツだ。昔と変わらず、ちょっと着崩した感じなの
に決まっている。大人になっても美形は得だ……
 でも、椿君はスーツを毎日取り替えるのが面倒臭いらしい。スーツなんて清潔にしてい
れば、二日三日変えなくても良さそうな気がするけれど。
 なんでも変えないで出勤するとあっという間に「二日連続で同じスーツってことは、ど
こかに泊まったのか」と噂されるそうだ。彼女がいるのいないのって噂は高校時代からあ
ったんだから、そのぐらいいいじゃん別にと思うんだけど、噂が一人歩きして背鰭尾鰭ど
ころか翼までつきそうな勢いなのが嫌なんだそうだ。
 昔はそんな細かいこと言わなかった気がするけど、心情の変化は誰にでもあることだし
ね。ツッコむのはやめておく。
「椿君は制服がいいのかもしれないけど、私は嫌なんだってば」
「なんでだよ。苗床だって、私服に拘りあるようなタイプじゃねーだろ」
「私服に拘りがあるんじゃないよ」
「じゃ、なんでだよ」
 言わないと納得しないか……いや、でも、一回言ったんだ。
「制服だと、どう見ても婦人警官にしか見えないでしょ?」
「おう」
「この格好で見てるとさ、警戒されるんだよね」
「……お前、本当に他人をじっと見る癖なおらねーな……」
「婦人警官がじっと見てると、なんかやましいことがなくても逃げる人が多くって」
「……ああ、まあ、そうだろうな」
「キャリア狙いは他省庁より警察が面白いと思ったけど、失敗しちゃったしね。ノンキャ
リアで入ってもいいかと思ったけど、制服は盲点だった」
「お前に向いてる職業は、別にあったと思うぜ」
 椿君が私に向いてる職業について言及するのは初めてのことだったので、興味が湧いて
聞いてみた。
「何? 私に向いてる職業って」
「家政婦」
「別に、家事、得意じゃないよ」
「家政婦なら見放題じゃねーか」
 私も他人のことは言えないけど。
 ……椿君、古いよ、それ。

「この仕事も見放題って言えば見放題なんだけど」
 私は路肩に停まってる車の中を覗き込んだ。
 中には誰もいない。
 これは言わずと知れた、駐車違反の取り締まりだ。
 駐車違反っていうのは停めちゃいけないところに車を停めて放置しておくことで、中に
人が乗っていれば取り締まりまではしない。だから中に人がいるかどうか確認するために
覗く。
 中に人はいても寝てたりなんかしたら、窓を叩いて起こしたりする。
 誰もいなければタイヤのところにマーキングして、一定時間戻らないなら違反切符を切
ったり、レッカー移動したりする。
 覗くついでに中は色々見られるけれど、人間じゃないからつまらない。車の中に置いて
ある物で、その持ち主のことは推測が立つけど、それは別に楽しくはない。
 ただこうやって婦警の制服で駐車違反の車を覗いてたり、チョークでタイヤをマーキン
グしてたりすると、どこか車が見えるところにいるのか慌てて持ち主が走って来たりもす
る。
「す、すみませんー! ちょっと待って!」
 車、その中味、人間が揃うと、事情がわかってちょっとは楽しいかもしれない……けど。
「移動してください」
「はいはいはいはい、えーと、切符は……?」
「今すぐ動かせば」
「はい! 今すぐ! ……食事中なんですけど、後三十分くらいとか……」
「…………」
「……今すぐ動かします」
 こんな時には、偉くなりたかったり、威張りたかったりした人には、いい職業なのかも
とは思う。時々ごねたり喚いたりするのもいるけど、よほど頭悪くなければ手を出してき
たりってことはない。それをやると公務執行妨害罪で現行犯逮捕、ということは浸透して
いるようだ。
 今回走ってきたのは男性。でも、車の助手席には女物と思われるバッグがあった。ハン
ドバッグサイズじゃなくて、ちょっと大きめトートバッグ。
 これはデート中っぽいかな。どっかに出掛けた帰りに、食事に寄ったのか。彼女は大き
なバッグは車に置いて、ポーチだけ持っていったと見る。
 彼女をレストランに置いて走ってきたから、すぐ帰りたかった。見逃してもらえればと
思ったようだけど、すぐ諦めたらしい。身体は大きな男性だけど、小心なんだろうな。ご
ねるより近くのパーキングに移動した方が早いと見たか。
 ……事情は読めても、大して面白くない。
 車は走り去っていった。
 さて、次に行くか。
 婦人警官の制服がうろうろしていると、今みたいに自分の車の順番が来る前にと走って
来る人がけっこういる。私は、やっぱりこの制服を脱ぎたいという気持ちを新たにした。
 今の人は私が来て、すぐに現れたから、やっぱ見えるとこにいたんだろうな。この辺、
レストランとかあったっけ。
 ちゃっちゃかやらないと……
 そして、街路樹の日陰に停めてあった車に近づいた。
 また中を覗き込む。
 運転席いない、助手席いない……っと、後部座席に人がいる。横になってるけど、具合
悪いのかな。窓越しで、顔は良く見えない。女子高生っぽい。
 窓ガラスを軽く叩いてみたけれど、起きる気配はなかった。
 人はいるけど、どうしようかなと考え込んでいるところに、また人が走ってきた。その
手には近くのホームセンターのビニールの買い物袋。車停めて、買い物に行ってたのか。
 ……具合の悪い子を置いて?
 ホームセンターって、薬とか扱ってたっけ?
「すみません」
「移動してください」
 決まり文句で謝られたので、決まり文句で返した。
「はい」
 素直に答えて、その若い細身の男性は車に乗り込もうとした。鍵を出し、運転席側の扉
を開けて……
 その間、私は男性が持っていたビニール袋の中味を盗み見ていた。
 ビニールの中に入っているものは、ロープとかガムテープとかだった。ホームセンター
で買う物としては、珍しいものじゃない。
 でも。
 やっぱりそれは、具合の悪い子を置いてまで買いにいくもの?
 後部座席に横たわる女子高生と、ロープとガムテープ。
 組み合わせると、どうなんだろう。
 嫌な予感しかしなくて、運転席に乗り込もうとしていた男の肩を掴んで引き留めた。
「ちょっと訊きたいんだけど」
 それで、身体を車の奥にねじ込むようにして、後部座席を覗く。
「後部座席の彼女、具合悪いの?」
 窓越しよりはよく見えて……顔に、あざがあるように思えた。
「ぐったりしてるけど」
 でも、ちょっと身を乗り出し過ぎたらしい。
「きゃっ!」
 逆に私は腕を掴まれ、車に引っ張り込まれた。助手席に放り込まれるように、突き飛ば
される。向かいの窓に激突して頭を打ち、すぐに動けなかったのが災いした。
 扉の閉まる音がした。
 これはヤバイ。
 車が慌てて動き出した。
 どこへ行く気なのかわからないけれど、今暴れて逃げ出せるだろうか。
 ……車を事故らせれば、逃げられるかもしれない。
 でも、完全に止めることはできるだろうか。
 後部座席の子が生きているのか死んでいるのか確認は出来ないけれど、ロープとガム
テープを買ってきたところから考えると、まだ生きている可能性が高い。監禁する意志が
あるとみる。
 ……生きてる女の子、見捨てて逃げるわけにはいかないな……
 でも、女の子はとりあえず生かして監禁しておくつもりでも、婦人警官の服を着た私は
どうだろう。解放したら、即逮捕なのは明らかなんだから。
 嫌な予感しかしない。
 ひとまず暴れても良いことがなさそうなので、警戒させないように気絶したふりをする
ことにした。
 さあ……この後、これはどうしたらいいんだろう。

 車が動き出してから五分。最初はどうにも慌てた感じで、急加速に揺れていた車体が安
定して走り始めたように感じた。ただ、速度は変わらず速い気がする。やっぱり落ち着い
たように見えても、運転している男が焦っているせいだろう。
 後部座席に女子高生が寝てるにせよ助手席に婦人警官が寝てるにせよ、覗かれたら不審
人物認定は確定だから、町中を長くは走りたくないよね。急ぐ気持ちはわかる。
 私を乗せちゃったのはアクシデントに間違いない。では、女子高生の方はどうだったの
か。
 真っ昼間から未成年者略取……しかも略取した女子高生を車に乗っけたまま、ロープを
買いに行くというのは、まさに泥縄。計画性があったとは微塵も思えない。
 そもそも最初からアクシデントで始まったのか、それともこの男が行き当たりばったり
すぎるのか。そこの判断はちょっと難しそうだけれど、予定通りに事態が運んでいるとい
うことだけはないだろう。
 つまり、この車がどこに行くとしても、それは今この男の頭の中にあるところだという
ことだ。人間は、まったく認識できない場所に行くことは難しい。事前に計画を立ててな
ら、見知らぬ場所にも向かえるけれど。
 だから殺人を犯した犯罪者は、自分の行動範囲内に死体を遺棄することが多い……うー
ん、今の状況に適切ではあるけど、このたとえはちょっと嫌だな。
 ともあれ、この車は、運転してる男の生活範囲内の人目のつかないところに一度は停ま
るだろう。その時、どうするかを、今のうちに考えなくてはならない。
 気絶したふりをしていることに気がつかれないように、そっと薄目を開けた。
 男は険しい表情で前を見ている。その向こうにあるドアの窓から見える風景はまだ町中
だ。これに緑が多くなって、見慣れない風景になってきたら、要注意だ。
 この男の生活範囲が、町中だけである保証はない。田舎っぽいところは、余所者がいれ
ば目立つけれど、その異物を監視する目はけして多くはない。
 男が、ちらとこちらを見る気配がして、慌てて目を閉じた。気付かれない限り、狸寝入
りは続行だ。気付かれたら、あるいはあまりに遠くに連れて行かれそうなら、覚悟を決め
なくちゃならないが。
 確実に、自分と、後部座席の彼女を救うには……助けが欲しい。一人ではちょっと心許
ない。
 助けを呼ぶ方法と、それを待つ時間が必要だ。できれば、助けが来るまでの時間を考え
れば、助けを呼ぶのはなるべく早い方がいいけれど。でも、この車が走っている限りは無
理か……
 車は、その後十分ばかり走り続けた。
 そして、ちらちらと男の目を盗んで確認していた限りでは、町中という範疇から出るこ
とはなく車は停まった。最後に盗み見た後の一分ほどでド田舎にワープしたなんてことは
あるまい。
 すぐ周りを確認したかったけど、起き出すわけにはいかない。
 まずは、ここがどこか。
 おそらく男の自宅か、そうではなくても私たちを一時的にでも隠しておける場所だ。違
う場所に運ぶための中継地点という可能性もあるが、その場合はこの先は長距離移動にな
るだろう。
 いずれにせよ、男が、まずどうするかを見極めなくてはならなかった。
 私と女子高生を置いて、どこかに行くか。
 私か女子高生を運び出すか。
 それとも叩き起こして、歩かせるか。
 多分三番目はない。
 ここはまだ町中だ。万が一にも振り切られれば、数歩逃げて隣家に飛び込まれても、こ
の男の犯罪は明るみに出る。
 一番目は……ないとは言えないけど、私に発見されたことを学習していれば、やらない
だろうな。
 おそらくは二番目。でも、これも目を離した隙に誰かに見つかるリスクを秘めている。
手早くやりたいところだろう。
 ならばどちらを先にするか、と思ったが、それは悩むより早く答が出た。
 腕を乱暴に引かれた。
 私を先に運び出すことにしたようだ。まあ、車の中で婦人警官が気を失っているのと、
女子高生が気を失っているのだったら、後者の方が言い訳しやすいよね。
 でも普通そんな乱暴にしたら、目を覚ますよ!
 目を覚ましたことにして、暴れるか。ここでなら、近所から通報が行くだろう。でも通
報から、ここに警官が着くまでにも時間はかかる。その間、一人で頑張れるかどうか……
そこが問題だ。正直、私は肉体派じゃあない。
 迷ったのは一瞬で、私は狸寝入りを続けた。
 男が私を抱きかかえて運ぶ間に、また薄目を開けて周りを見る。
 そこは、男の自宅のようだった。
 一戸建てだ。
 他に家族はいないんだろうか。
 家の中に運び込まれ、奥の寝室に連れて行かれる。そこに置かれた。
 男は、一緒に持ってきたロープを袋から出して――少し迷ったようだったけれども、そ
のままロープも置いて急いで部屋を出て行った。
 私を縛っておくことと、その縛る時間の分、車に女子高生だけを置いておくリスクを天
秤にかけたというところだろう。……首を絞められて殺されたかもしれない可能性は、横
に置いておく。
 とにかく、縛られなかったのはラッキーだった。
 私は男の目がなくなるとすぐに、内ポケットから携帯電話を出した。男がすぐに女子高
生を連れて戻って来るだろうことは、間違いない。
 一分か、二分か。
 相手が出るまで待たなくちゃいけない電話よりも、メールが確実か。
 私は呼び出したアドレスに、大急ぎでメールを打った。簡潔な文でも、きっとわかって
くれると信じて。
 送信。
 それからGPS発信をオンにして、ベッドの下の窓際よりに滑り込ませる。
 その時、ガチャリとドアの開く音がした。
 ぎりぎり間に合った……!
「あなた」
「気がついたのか」
 その腕には、まだぐったりした女子高生が。
 でも、その時、女子高生が呻き声をあげた。
 やっぱりまだ生きてる……気がついた?
「……ちっ」
 男は舌打ちして、女子高生をベッドの上に降ろした。
 そして、ロープを取って、私に……

「痛いってば」
「我慢しろ」
 私はロープで縛られた。いきなり殺しちゃおうって短絡思考じゃなくて助かったけど、
展望が良くなったわけではない。
「その子、大丈夫なの?」
「大丈夫だ。気絶してるだけだ」
 大丈夫だなんて言ってるけど、乱暴したのは間違いないし。
「警察は民事不介入なんだろ」
「そうだけど……」
 未成年者略取は民事じゃないでしょうよ。
「身内なの? その子」
「そうだ」
 返事に淀みないな。本当に身内なんだろうか。
「妹だ。だからちょっと待ってくれればいいだけだ」
「本当に妹なの?」
「本当だよ」
「その子もここに住んでるわけ?」
「それは……」
 言い淀んだ。どういう事情なんだ。
 家庭の事情は色々すぎて、見当が付けにくいな。
「こいつは母親のとこにいるから」
 両親は離婚か。いやいや、離ればなれの兄妹にしたって、殴って攫ってきて、ロープと
ガムテープは穏やかじゃないだろう。
「離れても大切にしてきたのに、こいつは他の男と」
 もしかして、やばいレベルのシスコンか。
 妹はまともで、他に彼氏を作ったのか……
 これはこのまま放っとくと、兄妹なら、もっとやばい道へ踏み込むんじゃ。
「そりゃ他の男と付き合うことだってあるでしょうよ」
「あるわけないだろ!」
 駄目だ、これは。
 これ以上は無駄に刺激することになりそうだったから、ひとまずは黙ることにした。
 私を縛り上げた後、男はベッドの上に置いた「妹」も縛り出した。そもそもそのための
ロープだったはずだ。
 そして、私はちらりと残ったガムテープを見た。私に向かって、この出番がなかった理
由は、私が先に黙ったからだ。叫ぶような真似をしたら使用されただろう。
 だけどこの男がこれを購入した時、私……婦人警官が介入してくるとは思っていなかっ
たはずである。
 なのに、これを買った理由は何か。使用しない予定のものを買うとは思えない。つまり、
騒がれる可能性を考えていたわけだ……私ではなく、「妹」に。
 既にどこかで騒がれたから、殴って黙らせたのだとも思えるけれど。黙らせるのにガム
テープを使うということは、長時間黙らせる必要を感じているということで。やっぱりこ
う、民事不介入で済ませられる範囲を超えるんじゃなかろうか。
 私の目の前で、決定的なことはしないかもしれない。仮にも婦人警官だし。
 民事不介入の言葉を鵜呑みにしているふりをしているうちは、決定的な犯罪を視界に入
れない限りは……
 でも、この男には、待つ時間と理由はない。
 縛り上げて、用が足せる状態ができあがったら、動くだろう。
 それは、おとなしい説得だけではない……と見るべきだ。
 ただ「ボーイフレンドのできた妹」を監禁するだけのつもりなら、私はとんでもなく邪
魔なおまけなのだ。もしその期間が「妹が諦めるまで」だった場合、一緒に婦人警官を監
禁したら、当然そこは犯罪になる。犯罪を避けるなら、私を解放しなくてはならない。解
放したら、妹の監禁は邪魔されるかもしれない。
 うん。時間をかけたら、いずれ摘発されることは間違いない。
 それを避けるには、二つに一つだ。
『即、妹が諦めるように仕向ける』
『私自身に、口止めをする』
 いずれにせよ、犯罪性なく実行するのは難しい。
 私を移動させるか、「妹」を移動させるかしようとしたら……タイムリミットか。
 何をどうするつもりでも、どちらかの目に触れるところで行えば悪影響があることくら
いは見当がつくよね。
 私には、このまま黙り続けて待つか、積極的に時間を稼ぐかの選択が迫っているようだ
った。
 男は妹を縛ったあと、少し気が抜けたのか座っていた。そこに声をかける。
「ねえ、大丈夫なの、本当に、その子」
「……大丈夫だよ」
「意識戻らないじゃん」
「…………」
「病院に連れて行った方がよくない?」
「大丈夫だ」
 リスクは理解していても、自己愛の方が強いか。はなっから自分の欲望で、妹に言うこ
とを聞かせようって男だしなぁ。
「やめなよ、何するつもりか知らないけど」
「わからないなら黙ってろよ」
「わからないけど、ヤバイことはわかるよ」
「…………」
「お兄ちゃん捕まったら、妹は悲しむんじゃない?」
「民事不介入だろ!」
「私、身内じゃないからさ」
「…………」
「警官を監禁は、ヤバイでしょ」
 理屈が吹っ飛んじゃってるヤバイ人に、理屈を捏ねて説得しようというのが困難なこと
はわかっている。
 高い確率で逆効果だ。
「ねえ」
 男が私をじっと見ている。
「今なら、まだそんなにヤバイとこまでいってないよ」
 男は考え込んでいる。
「私のこと解放しない? 本当に妹なら見逃すよ」
「…………」
 かなり考えてる。
 この男、行動はイっちゃってるけど、思考能力と判断能力は多分人並み程度にはある。
「駄目だ」
 ……信じないか。
 そうだね、私もそんなこと言われたって信じない。
 じゃあ、この後の私の運命は二つに絞られたな。
 口封じに、殺されるか。
 口封じに、なんかされて、脅されるか。
 どっちも嫌だ。
 でも、救けがそれに間に合うかは微妙だな……
 男は立ち上がって、私を抱え上げた。
「ちょっと」
 話しかけることで、判断させちゃったらしい。
 黙っていた方が時間稼ぎになったかな、と少し後悔が湧いたが、正解がどっちだったの
かは永遠に答の出ないことだ。
 部屋を出る。
 移動先はどこか。
 ヤバイ、行き先は風呂場だ――と思った時、玄関のチャイムが鳴った。
「ちっ」
 そう舌打ちしただけで、男は玄関に向かう様子はなかった。
 まあ……だよね。この状況で馬鹿正直に客の前に顔出したりしないよ。
 私はこの訪問者が助けに来てくれた者ではないかという期待も少し抱いたが、ちょっと
速い……とも思っていた。私がSOSを発信してから、ここにたどり着くには、時間がか
からなさすぎる。多分、別の用件で来た者だろう。おそらくは一般人だ。
 だが、私にとってのタイムリミットは目前だ。このままでは間に合わなくなる。
 チャイムがもう一度鳴る。
 男はちょっといらつきながら、風呂場の戸を開ける。
 風呂場は監禁する場所として、適当ではないだろう。
 風呂場が何に優れているかと言えば……汚しても掃除しやすいということに、か。ある
いは、狭い空間に見たくないものを押し込めておくことにか。
 それは――ぶっちゃけて言えば、死体が発生した後のもろもろにだ。
 だから、私に迷う余地はなかった。
「助けて……!」
 予備動作を悟らせることなく叫んだ。
 折り悪く、チャイムがもう一度鳴る。
 チャイムを鳴らしているのはセールスなのか宅配の配達人なのかわからないが、等間隔
で繰り返しているようだった。
 聞こえてくれ、と祈って。
「たす……ぅっ」
 だけど、二度目を叫ばせてくれるほどには、男はまぬけではなかった。
「くそっ! 黙れ!」
 手で口を塞がれる。
 口を塞いだから、体を支えていた腕の力が弱まって、床に足がつく。でも力が入るよう
な体勢ではない。
 そのまま男は明らかに焦った様子で、風呂場に私を引きずり込む。
 外まで悲鳴が聞こえたかどうかを確かめる術はない。
 もう駄目だと思って諦めるか、時間がないと焦るのか、この男は後者だったようだ。と
ことん自己愛が強いか。
 チャイムはもう鳴らない。
 来訪者は諦めたか。
 最悪だ――
 風呂場で、壁に押しつけられて男の手が首にかかった時、さすがに私も覚悟した。
 だけど。
 その覚悟を叩き壊すような音が、そのとき響き渡った。
 特徴的なガラスの破砕音。甲高くはない、厚みのあるガラスのものだ。
 玄関じゃない。
 予測していなかったその音に、男も仰天して困惑したようだった。首を絞めようとして
いた手の力が緩み、半開きの風呂場の扉を振り返る。
 そこに、人影が走り込んできて映る。
「苗床!」
 少し乱れたチャコールグレーのスーツ姿は、最後に見た椿君のと同じものだ。
 半開きの扉を全開にして風呂場に飛び込んできた椿君は、その動きを一拍も止めること
なく私を押さえつけていた男の首根っこを掴んで力任せに引き離し、逆の壁に向かって叩
きつけた。
「苗床、無事か!?」
「……どうにかね」
 間に合った……ことにただ安堵して、私はその場にへたり込んだ。



 男は捕まった。殺人未遂の現行犯だ。
 妹に暴力を振るったって犯罪は犯罪だけど、私が巻き込まれたせいで罪は重くなったと
は言える。でも、私が巻き込まれなかったら、妹の方は人生を狂わせていたかもしれない。
だからこれで良かったんだろう。
 あのとき私の予測できない速さで駆けつけた椿君は、玄関で私の声が聞こえたという。
すごい聴力だ。
 そして玄関をぶち壊すより、ガラス戸の方が速いと即座に判断して、テラス側に回って、
それを蹴り壊したという。それにしたって、なんて力だ。
 おかげで間に合ったので、今回は本当に椿君の超人さに感謝するけど。
「やっぱり、制服は駄目だな」
 ミニパトの整備をしてたら、出かける前の椿君が通りかかって、そう言った。
「意見を翻す?」
「お前がさ」
 やっぱり制服は駄目だ、危ない、と椿君は首を振る。
「ああ、まあ、ね。今回は制服じゃなかったら、もうちょっと、やりようも余裕もあった
よね。刑事になれればなあ」
「……刑事も駄目だ」
「他で私服って、ないじゃん」
「刑事も危ない」
 確かに、椿君と違って体はついていかないかもしれないけど。
「どうすりゃいいのさ」
「家政婦にしとけよ」
 またそれか。
「家事得意じゃないんだってば」
「――上手くなるまで、うちで雇ってやるから」
 家事が上手くなるまで、椿君ちで家政婦?
 家事できない家政婦を雇うって、なんてボランティアだ。
 そこまで甘えていいものかな。
 でも、制服は脱げるんだよね。
「うーん、考えとく」
 そう言ったら、椿君は妙に上機嫌になって聞き込みに出かけていった。

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