戻る
 だんだん暑くなってきて、定期考査が近づいてきた頃。
 苗床が難しい顔で現国の教科書を睨んでいた。
 苗床かのこは本当に真面目に勉強するタイプで、各学科に大きな得意不得意の波はない。
 ないが。
「苗床って、もしかして現国苦手?」
 教科書を親の仇のように睨むその顔を見て、好きだろうとは思えなかった。
 俺が声をかけると、苗床は顔を俺の方に向けた。
「別に苦手じゃないよ」
 ……苗床。ものすごい嫌そうな顔で言ってるぞ、それ。
「苦手じゃないけど、イライラすることはある」
「なんだそりゃ」
「登場人物が何を考えているかを書きなさい、みたいな問題は好きじゃない。文章だけじ
ゃわかんないこと多いよ。直接観察しないとさ。しかも国語は『間違ってないけど』とか
言ってサンカクをつけるところが気に入らない!」
 ばん!
 と、だんだん興奮してきたのか、苗床は教科書で机を叩いた。
「間違ってないなら、マルでいいじゃん」
 ああ。
 こいつ、きっと深読みしすぎて、変なこと書くんだな。
「現国なんかクイズみたいなもんだろ。登場人物の考えなんて、当たり障りのないこと書
いときゃマルがつくぜ」
「……椿君と違ってさ、その当たり障りのないことがわかんないんだって」
 苗床は溜息を吐いた。
「普通って転校しなくなった今でも難しいよ」
 暑くなってきて勉強に集中し辛くなってきたし、とぶつぶつ言っている。
 そうか。
 つぶれ荘だからな。
 暑いと勉強に集中できないと言うのはわかる気がした。
 苗床は成績を下げるわけにはいかないんだから、余計にイライラが募るだろう。
「日曜、実家に戻らないなら一緒に勉強でもするか? 俺の部屋はクーラーあるぜ」
  ……下心はなかった。
 ふと口を突いて出たという感じだ。
 言った後から、自分の部屋に苗床を誘った高揚感が湧き、同時に下心を勘ぐられる不安
がよぎったが。
「いいの? 試験前だから、移動時間もったいないんで家には戻らないんだけど」
 苗床は気にしないようだった。
「じゃ、おじゃましちゃおうかな……」

 日曜の午前は、掃除をしていた。
 幸運なことに、姉貴は大学のなんだかでいない。母さんも夜まで帰ってこない。親父は
仕事だ。
 ……ちょっと出来過ぎなシチュエーションな気がして、逆にしっぺ返しを疑う。苗床に
絡む話では、そんなことが多すぎる。
 美味しい話には、裏があると言うか、反動があると言うか。
 意味もなく警戒感も煽られたが、ともあれ。
 見られて拙い物は隠す……例の写真とか。
 見つからないように、厳重に。
 机の奥にそれをしまい込んでいる時に、記憶にないデータCDが代わりに出て来た。
 ……なんだこりゃ。
 本当に記憶にないCDで、ケースにインデックスのように何かのナンバーだけが書かれ
ていた。
 書かれているということは、中身は入っているのだろう。
 そして持っているのだから、何かで借りたか貰ったのだろうが。
 中身が、どうしても思い出せなかった。
 少し迷ったが、パソコンを立ち上げドライブに差し込んでみる。
 ウィルスなら、ウィルスソフトが反応するだろう。
 再生が始まると、それの正体はすぐに知れた。
 動画だった。
 ……アダルトな。
 そして俺は固まっていた。
 アダルト動画を見たことがないわけじゃない。
 中学の時にも男子の中では、こっそり出回っていた。
 積極的に見たいわけでもなかったが、順番のように回ってきたので見たものもあった。
 でも、それは確かに初めて見た動画だった。
 前に見たなら、きっと憶えていたはずだ。
  ……ウィンドウの中には、苗床に似た女がいたからだ。
 苗床に似た……
 ……そうだ。

 頭の中に、中三の冬のある日のことが閃くように甦る。

「なんか、女優が転校してった苗床にちょっと似てんだ、これ」
 大学生のいとこが焼いてくれたというCDを、クラスメートがそう評しているのを聞い
たのは偶然だった。
 そんな話に参加したことはなかったから。
 苗床が一人でいるのが好きだというのを笑えない位、俺も一人でいることが多かった。
三年の後半は、夏草と花井と一緒にいることが多くなっていたけれど。
「なんだよ、それ!」
「それは駄目なんじゃねー」
 それを聞いてた男子連中は笑っていた。
「俺、それは見たくねぇ」
「おれもダメだ」
「オレ、ちょっと見てみてー。怖い物見たさ?」
 そのうちの一人が、それを借りていく流れになりそうなところで。
 俺は横から割り込んだ。
「それ、俺に貸して」
「え、椿君見たいの?」
「あ、オレはいいよ、椿君先で」
 そうして、受け取って――

 そのまま見ないで引き出しに入れて、今まで眠っていたわけだ。
 借りパチしてしまったことになるが、思い出した今も返す気にはなれなかった。
 あの時、これを横取りするように借りた時には、苗床のことを好きだとは思っていなか
ったわけだけれど。
 でも、もう苗床のことが好きだったんだろう。
 この女優は別人だけど、苗床を重ねて見られるのは嫌だったんだ。
「……似てねーじゃん」
 よく見れば、ちっとも似ていない。
「胸あるし」
 体つきも顔も違う。
「……売ってるものなんだから、同じ眼鏡をかけてることだってあるよな」
 似ていたのは眼鏡と髪型が少しだけだ。
「面白くねー……」
 そう思いながら、目が離せない。
 重ねるのは嫌なのに、重ねてしまう。
「ヤベぇ……」
 目を逸らして、頭を抱えて、チラチラ見て。
 直視することも止めることもできないまま、動画が終わるのを待ってしまった。

 動画が終わってからファイルを閉じ、なんだかむきになって掃除を続けているところに
苗床が来た。
「おじゃまします」
「あがって。コーラでいいか?」
「ありがとう、なんでもいいよ」
 コーラと氷を入れたグラスを持って部屋へ行く。
「椿君の部屋、綺麗だね」
 部屋に入ると苗床はきょろきょろとした。
 苗床のこの観察癖は、きっとずっと治らないんだろう。
「あ、パソコンあるんだ。触ってもいい?」
「いいけど別に何も面白いものは入ってないぜ」
 俺はテーブルにコーラとグラスを置きながら、答えた。
 答えてしまってから。
 思い出した。
 ……ヤバイ、CD入れっぱなしだ!
「苗床!」
 無意識に考えないようにしていた……としか思えない。
「やめろ、ダメだ!」
 直前の、あんなことを忘れるなんて!
「え」
 マウスを握ったまま苗床はびっくりした顔で振り返り、それからニヤリと笑った。
「ヤバイもの入ってるんだ?」
「馬鹿! やめろって!」
「椿君にも黒歴史ってあるんだ」
 言いながらクリックするなー!
 動画画面が開く直前に、後ろから苗床を抱き寄せてディスプレイの前から引き離し、そ
の目を片手で覆い隠した。
  ……間に合った、か?
「あー……なーんだ」
 画面は、動き出してしまっている。
 音声は……苗床にも聞こえている。
「エッチな動画かぁ。椿君、すっごい慌てるから、何かと思った」
 期待を裏切られたと言わんばかりの言い方で、苗床は言った。
「なんだと思ったんだ」
「椿君の成長記録とかさ」
「そんなのが仮に存在したとしても、自分のパソコンに入れておくかよ」
「そうなんだけど」
「……見えてないよな、苗床」
 振り切られないように抱いて、両目を覆えているとは思うが、不安になる。
「見えてないよ。エッチな動画なのは、音声聞いたらわかるじゃん」
「これは俺のじゃねぇんだよ。その、借りたけど興味なくて、今日まで忘れてたんだ。掃
除してたら出てきて、なんだか忘れてて、確かめるために再生してみてただけで」
 言い訳だ。
 自分でも、こんな言い訳信じられるわけがないと思う。
「ふうん? 離してよ。別に椿君がエッチな動画見てたって、どうこう言わないよ。中学
の時、どこの学校でもそういうのあったし。私、女だからわかんないけど、当たり前なん
でしょ? 見ない方がおかしいみたいな」
 ……それは、見えてないからだ。
 本当に見たら引かれるだろう、やっぱり。
 眼鏡がな……
 動画を閉じたいが、手を離したら苗床に見えそうで離すことができない。
 終わるまで……このままか。
 まあ、いいか。
 その間、こうして苗床を抱き締めていられるんなら。
「ねえ。最後まで、声だけ聞かせる気?」
「消したいけど、手を離したら見えちまうだろ」
「ちらっとくらい見えたって大丈夫だよ」
「駄目だ」
「女が見るもんじゃないっての? こういうのの声だけ聞かせ続けるって、なんかもっと
卑猥だよ」
「色々事情があるんだ。……嫌なら自分で耳塞いどけ」
「ときどき椿君ってわかんない。椿君が登場人物の話とかでテストされたら、サンカクと
バツだらけで酷い点数になりそうだ」
「少しはわかれよ」
 苗床はニブ過ぎるよな。
 今だけ、察しが良くても困るが。
「わかんないんだもん。説明して」
「……いつか説明する」
「いつかは言えるんだ?」
「多分……な」
 いつか結婚でもしたなら、もう逃がさないように捕まえたら、これも笑い話にできるか
もしれない。
「そっか……いつかか。楽しみにしとくよ」
 いつかという掴み所のない未来の約束に、苗床は少し嬉しげだった。

戻る

inserted by FC2 system