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 朝。
 登校すると、前の席には椿君がいる。
「はよ」
「……おはよ」
 なんにもなかったような顔で、椿君は振り返った。
 朝から、いちごオレなんて飲みながら。
「どうした? 苗床」
 そして聞くか、それを。
 私は答えないで、椅子に座った。
  ……正直、逃げ出したい。
 学校、来たくなかった。
 でも来ないわけにはいかなかった。登校拒否のヒキコモリなど演じれば、即座に家に連
れ戻されてしまう。そんなことになれば桃ちゃんとも引き離されて、また転校人生の再開
だ。
 絶対にそれは嫌だ。
「逃げたいけど逃げられないジレンマがものすごいストレス」
「お前、逃げたら執行猶予取り消しな」
「え」
「俺から逃げられると思うか?」
「……無理。脚の長さが違い過ぎ。追いつかれる」
「そうだな、逃げるなら待たないぜ」
 待たない。
 えーと、それはつまり。
 ……選択肢ないんじゃん。
 わがまま王様め。
 どうなんだ、それって。
 でも、その時、私はどうするんだろう。
 椿君から……離れようとするだろうか。
 逃げ出したいのは本心だけど、椿君と離れるのも嫌だった。ずっと会えないのは嫌だ。
一緒にいたい。迷った時には、きっと椿君の姿を探してしまう。
 でもこれは、多分夏草君に向かっても同じような感情がある。ずっと会えないのは嫌だ。
たまには、あの爽やかな笑顔が見たい。
 ……女の子は皆可愛いと言う夏草君の言葉に裏はないと信じられるから、そこに嘘はな
いから、もしかしたら私は夏草君が好きだったのかもしれない。
 不細工な自分でも、夏草君の目にだけは可愛く映っていると信じても良さそうだったか
ら。
 一晩もんもんと考えた挙句、椿君に応えられるかどうかではなく、夏草君を好きな本当
の理由に行き着いた……なんて。
 椿君に言えるわけもない。
 どんな不機嫌になるか、手に取るようにわかる。
 でも、もしかしたら言うべきことなんだろうか、とも思う。
 夏草君は桃ちゃんを好きだというのはハッキリしてるわけで、見込みはまったくない。
そして夏草君とそんな関係になりたいわけでもない。ただ夢を見させてくれる夏草君のマ
ジックが心地良いから、好きなんだ。
 前に、椿君が私のことを好きかもと思ったことがある。
 すごく嫌だった。
 別に椿君だから嫌なんじゃなくて、たとえ誰であろうと嫌なんだよね。
 きっと、そんな風に思えるなんて信じられないからだ。
 誰かが私にそんな好意を持つなんてありえないと、ずっと思ってきた。
 だって、私は孤独だったから。
 内面をちゃんと見て思うのでないなら、見た目でそう思うということで。
 仮に内面を見ても、そうは思えないはずで。
 私にそういう気を起こすっていうのは、理解の及ばない変態か、生物学的に女なら誰で
もいいかだと思う。
 夏草君は後者のタイプで、納得できちゃったんだろう。いやらしさもないし。
 ……椿君が、わかんねー……
 変態なのかな。
 とりあえず。
 先の展望はなくても、私は夏草君が好きなんだ。
 椿君も好きだけど。
 二人とも好き。
 それはきちんと分類すれば、きっと友情の好き。
 すっと一緒にいたい。
 昨日まで、それで良かったのにな。
 二人とも好きは、友情なら善だけど、恋なら悪だ。
 ……他の人が好きなのに、付き合うとかないよね。
 ないと思うんだけど。
 恋愛事は更に輪をかけて普通がわからないから、こういう時にどうしたらいいのかサッ
パリわからない。
 一、正直に言って諦めてもらう。
 二、理由は伏せて諦めてもらう。
 三、適当なことを言って諦めてもらう。
 ……諦めるも何も、やっぱりあれは質の悪い冗談で、からかわれてるだけなんじゃない
かとも思うんだけど。
 冗談であんなことは、流石にしないって言ってたけど。
 でも。
 真に受けたら私が痛い子、とかじゃないだろうか。
 こんなに椿君普通なんだもん。
 じっと見ていたら、椿君も見返してきた。
「……どうした? 苗床」
「いやその……普通だなと思って」
「普通?」
「椿君、まったく変わんないから」
「変わった方が良かったか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
 正直、変わらない方がありがたい。
 離れたくないから。
「もう一度聞くけど……昨日の、冗談じゃないんだよね」
「……苗床」
「え、やっぱり冗談?」
「お前に選ばせてやる。一つ、今ここで冗談じゃないことを身体で知る。二つ、人目のな
いところで冗談じゃないことを身体で知る。どっちがいい?」
「……両方イヤっていう選択肢は」
「ない」
「……スミマセン、後でもいーかな……」

 冗談じゃないことを昼休みの部室で思い知らされた。
 部長とかいなくて、本当に良かった……いや椿君の膝の上に抱かれて、キスされただけ
だけど。
  ……キスくらいは良いと思ってるっぽい、椿君。
 本当はキスだって、付き合ってない相手とはするもんじゃないんじゃないの?
 ホント、どうなんだろう。
 私を膝の上に乗せて、なんだか椿君は嬉しそうだ。
「……降ろして」
「ヤダ」
「部長とか来たらどーすんのさ」
「別に俺は教室でも良かったんだぜ?」
 教室でこれをやるつもりだったのか……!?
 こ、この男、私が思ってたより危険なんじゃ。
「椿君」
「なんだよ」
「椿君て、変態?」
「…………」
 あ、椿君の機嫌が悪くなった。
 そりゃそうか、変態って疑われて良い気分はしないよね。
「……我慢するのが楽しいわけじゃないぜ。苗床がいいなら、今ここででも……」
「ぎゃっ! 違うっ! そんな意味じゃないってば!」
 スカートを捲られて、慌てて裾と椿君の手を押さえる。
 ゆ、油断も隙もあったもんじゃない。
「…… 他の子なら、椿君が誘ったらほいほいついてくと思うけど」
「興味ねー。誰でもいいわけじゃねーんだよ。あいつが変なこと言い出さなきゃ、もっと
ゆっくり待ってるつもりだったのにな」
 あいつって……そうか、あれか。
「私にそんな気分になれるっていうのが、理解できない。実はなんかよくわかんないフェ
チとかで、そのパーツだけでお腹いっぱいになれるような……」
「フェチズムはわかんねーな」
 違うのか。
 そして珍しく、椿君は軽く頬を染めた。
「強いて言うなら、苗床フェチなのか?」
 それはフェチと違う……
 そして強いて言わなくていい!
 ……自分が真っ赤になってるだろうということはわかったものの、横座りで椿君の膝の
上に乗せられた状態じゃ、ぐりんと顔を逸らしても全部は隠しきれない気がした。
 ……おかげで、椿君の機嫌は直ったようだけども。
 えーと……認めなくちゃいけない、というとこまではわかった。
 椿君は、本気だ。
 ……本気で私とエロいことをしようと思ってる。
「本気だってことはわかったか?」
 そんな私の考えを読んだかのように、椿君は駄目押ししてきた。
 私は熱い顔を逸らしたまま、ただ頷く。
「……苗床」
 ひっ!
 しまっ……この位置、耳が無防備に……!
 耳元に囁かれて……頭か背筋かわからないどこかがゾクゾクした。
「夏草の方がいいのか?」
 でも続いた言葉に驚いたら、ゾクゾクは引っ込んでしまった。
 振り返ると、なんだか見たことのない椿君がいた。
 どこか切なそうな。
 でも笑っている。
「……夏草君は、桃ちゃんが好きなんだよ」
 そんなこと言っても意味がないと既に一蹴されたことを、私はまた繰り返していた。
「そうだな」
 夏草君が誰を好きかは関係なくて、私がどう思っているかが重要だから。
「だからやめとけよ。俺にしとけ」
 私がどう思うかが……
 ……そうだ、椿君は最初から知ってるんだ。
 私が夏草君を好きなこと。
 ――だから、そんなことは諦める理由になるわけがないじゃん。


 その後も、椿君は、二人きりになると時々キスしてきた。
 私を腕の中に閉じ込めて。
 でもそれ以上はない。
 そんな日が過ぎていく。
 そして私には、夢見さんの生霊が取り憑いてる。
 椿君は本気で、きっと諦めなくて、逃げたら捕まえられてそういうことで、逃げないっ
てことはそういうことで。
 ゴールがひとつしか見えない。
 そういうことの妄想が、気を抜くと襲ってくる。
 椿君に見られてると思うと、そういうこと考えてるのかと思っちゃう。
 見られてるだけなのに、触られてるような……視線が直接肌を撫でるような気がする。
 ……ホントに思春期だ。
 一週間とちょっとで耐え切れなくなって、私は水天宮鞠音を呼び出した。
 なぜ鞠音かといったら、鞠音以外に真っ当な恋愛相談が出来る知り合いが思いつかなか
ったからだ。
「珍しい人が、珍しいところに呼び出してきたものね」
 と、カラオケBOXの狭い個室を鞠音は見回した。
「あんまり連絡とってなかったのに、いきなりカラオケBOXでごめん」
「いいわよ、喫茶店とかじゃ出来ない話なんでしょ?」
 ……察しが良くて助かるというか、なんというか。
 それで、私は覚悟を決めた。
 弱みをさらすのは、正直怖い。
 でもわかる人に聞かないと、わからないことがある。
 包み隠さず、鞠音に状況を伝えた。
「それで?」
 私が話し終わった後の、鞠音の第一声はそれだった。
 ……しまった。
 大人な恋愛を経験済みな人には、こんな話程度は当たり前だったか……?
「いや、その、どうしたらいいかわからなくて」
「……どうしてどうしたらいいかわからないのかが、さっぱりわからないんだけど、何か
欠けてる情報がある?」
「ううん、全部話した」
「じゃあ、答出てるじゃないの」
「……?」
「ゴールはひとつしか見えない、んでしょ? 私にも見えないわ。相手は本気で、諦める
気なくて、苗床さんも一緒にいたいんでしょ? 処女だからエッチしたくないのかもしれ
ないけど、そこは妥協しないと。誰でも通る道なんだから。仮にその人と続かなくても、
あんたが処女性に幻想を持ってるとは思えないし、経験だって割り切るのね」
 ……人目がないから言いたい放題だね、鞠音。
「……やっぱり続かないと思う?」
 そして多分私が『どうしたらいいかわからなく』なってた踏み出せない理由まで、鞠音
にはすぐわかったんだ。やっぱり経験者じゃないと、わからないことってある。
「……そんなのわからないわ」
 踏み出せない理由は、椿君と続かなかった時に私だけあのグループの中から外れてしま
いそうだったからだ。
 付き合うことでも変化はあるだろうけれど、壊れた時のエネルギーの方がきっと大きい。
 中学時代も転校してから変わっていく三人を見て、寂しくなったことがある。
 変わらないより、変わった方がいい。そんなのは強がりだった。
「相手の男のあんたへの執着っぷりだと、そうそう飽きて捨てられるなんてなさそうだけ
ど……こればっかりはわからないわ」
 鞠音は少し遠い目をして言った。
 そうだね、先のことはわからない。
「だけど『捨てられるかもしれないから付き合わない』っていうのは、ナンセンスじゃな
い? 付き合いきれないって予想できるならともかくね」
「……捨てられても、友達でいられると思う?」
 鞠音はびっくりした顔で私を見た。
 何か変なことを言っただろうか。
「……驚いた! ベタ惚れなんじゃない、苗床さん」
 ……ベタ惚れ?
 一瞬鞠音の言葉が理解できなくて、ぼんやりして。
 理解できた瞬間には、真意を確かめなくてはと叫んでいた。
「だ、誰が誰に!?」
「あんたが、相手の男によ!」
 私が、椿君にベタ惚……
「ないないない!」
「捨てられても友達でいたいなんて言う人に否定されても、信憑性0ね」
 はっ、と鞠音は顔を歪めて息を吐いた。
「ただ自信がないだけなんじゃないの」
 ……ベタ惚れ、なんだ。
 世間一般的には。
「答は出てるでしょ。後押しして欲しくて私に話して聞かせたんなら、いくらでも言って
あげるけど。時には続かないこともあるけど、でもそれは付き合わない理由にはならない
んじゃない? 苗床さんは容姿や性格に問題ありまくりだし、自信がないのはわかったけ
ど、そんなの全部知ってる相手でしょ。後は苗床さんが痛いの我慢するか、相手にずっと
我慢させるかの二択だけど、ずっとは我慢しないって言うんなら、いつかはやるってこと
でしょ。諦めなさいな」
 鞠音、あけすけだよ……
 ……でも、そうか、我慢か。我慢してるって、椿君確かに言ってた。
「我慢……してると思う?」
「してるわよ、すごく。男子高校生なんだから。そうね、多分合意の上の方が優しくして
もらえる分、きっと少しは痛くないわよ」
 椿君は、私がこういうこともわからないから、待っててくれてるのかな。
「それに初めてが無理矢理だと、避妊してもらえないでしょ」
 ……鞠音。
「避妊は大切よ。高校生で妊娠しちゃったら、色んなとこがうまくいかなくなるわ。それ
こそ捨てられる原因に」
 ……ありがたいんだけど、恥ずかしいって。
「ゴム持ってない時に盛り上がっても困るし、自分でいつも一つ二つは持ってなさいよ」
 鞠音ぇ……!

 それから、しばらく経った。
 何も変わらないまま、時々桃ちゃんと遊んで、桃ちゃんの家でごちそうになって。桃ち
ゃんが知ったら、なんて言うんだろうって思いながら、言い出す勇気はなくて。
 ただ私は椿君のキスに慣れてきた。
 ただ、されるがままになってるだけだけど。
 はじめは私が逃げないように強く抱きしめてきた椿君も、もう逃げないと思うようにな
ったのか、髪を撫でてそっと触れるだけのキスをするようになって。そんな時の椿君の表
情は優しくて……居心地が悪い。
 もしかしたら、椿君はこのままずっと我慢してくれちゃうのかもしれない。
 俺様の癖に優しいから困る。
 子ども扱いされてるのもむかつく。
 だから。
 終わりにしなくちゃいけないと思った。
「椿君」
 自転車をアパートの入口の横の定位置に止めて。
「送ってくれて、ありがとう。今日はあがってって」
 あの日から、椿君を家にあげるのは初めてのことだ。
 話があるから、というと、椿君は神妙な顔でついてきた。
「先入って」
 椿君を先に部屋に入れて、後から自分が入る。
 まだ外は明るいから、電気はつけない。
「そこに座って」
 座布団に椿君が胡坐をかく。
 そこで、私は少し大きな声を出した。
「正座して」
 椿君はびっくりした顔で、まだ立ってる私を見上げた。
 座りなおした椿君の前に、私も正座する。
 そして、向かい合って。
「……話って?」
 そう椿君に聞かれて、黙って、かばんの中から小さい箱を出した。
 椿君も、一瞬それがなんだかわからなかったようだった。
 でも。
「なえ……!」
 気がついて、絶句したようだった。
 ……私と言えば、恥ずかしくって顔を上げられない。
「私、やっぱり友情と恋の区別つかないし。椿君のことも夏草君のことも好きだけど、や
っぱり椿君への気持ちも夏草君への気持ちも恋とは違うような気もする。それでもよけれ
ば――」
 でも、私は絶句していられない。
「避妊はして」
 言わなくちゃならないことがまだある。
「桃ちゃんには自分で言うから、言わないで」
「……わかった」
 返事が聞こえたけど、顔は見られなかった。
 どうしても顔を見るのが怖かったから、眼鏡を外した。
「…… 痛いのやだ」
 もう何も見えない。
「……やさしくして」
 見えない視界に、肌色が見えた。
 椿君の手だ。
「ごめんな、苗床」
 私の頭を撫でる。
「まったく痛くないようには多分できないから、少しだけ我慢してくれ」
 やさしい手とやさしい声が、私を撫でる。
「……やさしくする」
 やさしい言葉が、唇に誓う。
 これは恋じゃないかもしれないけど。
 ……その痛みを伴う儀式を許せるなら。
 ――いつか愛になるかもしれない。

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