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 衣替えの日。
「オハヨ」
「おはよう、椿君」
 朝、いつものように声をかけると、返事をした苗床がじーっと俺のことを見ている。
 何かをじーっと見るのはこいつの癖だが、俺を見ることは意外に少ない。
 ……ここで勘違いの一つもできない自分が、少し悲しい気がしたが。
「なんだよ?」
 訊くと、苗床は首を傾げた。
「前からちょっと思ってたんだけどさ。椿君、痩せた?」
「は?」
 俺は半袖になった自分の腕をまじまじと見た。
「……いや。体重は中学に比べて増えてるぜ」
「そうなの?」
 身長が伸びるのが速すぎて、中三の頃は筋肉が追いついていかなくてひょろひょろにな
っちまったからな。身長も落ち着いたみたいだから筋トレ始めたんだが、おかげで少し効
果は出て来てる。
 ……だから、痩せたなんてこたぁないはずなんだが。
「見た感じがさ、すっきりしてきたような気がしてたんだよね。で、薄着になったら余計
に」
「俺はお前と違って、ちゃんと食うもん食ってるから意味もなく痩せたりはしねーよ。筋
トレで筋肉つけるために、タンパク質多めに摂ってるしな」
「へー、ちゃんとそういうこと考えてるんだ」
「何も考えねーと効率悪いだろ」
 椅子を引いて自分の席に座り、身体を捻るように苗床の方を向く。
 苗床は、まだ考え込んでいた。
「じゃあ、なんでかなあ。細く見えるのは間違いないんだけど」
 繰り返されて、ちょっと顔を顰める。
 中学の時分に十分細かったのに、更に細く見えるようになったと言われても嬉しいとは
思えなかった。
 女なら細いとか痩せたとか言われると嬉しいのかもしれないが……と思いながら、もう
一度苗床の顔を見て。苗床はそういうことを考えないってことを、思いだした。
 高校入ってから粗食過ぎて痩せすぎて、放っておいたら生命の危険があるんじゃねーの
かってほどの体重になった女だ。身体測定の時に、一回測って親にバレるとマズいと慌て
て石だか本だかを隠し持ってから測り直しさせて、体重を水増ししたという話は、まだ記
憶に新しい……その程度で騙されんなよ、保健医。
 ともあれ痩せ信仰のない苗床が言うからには、前より細く見えるのは真実なんだろう。
 俺はざっと痩せるような心当たりを思い返し、体重は減っていないということは……と
いうところを総合して、結論を出した。
 結論してしまえば、当たり前っちゃ当たり前の話だったが。
「脂肪が落ちたな」
 自分の腕を撫でてみる。
 ストレートに筋肉の硬さを皮膚の下に感じる。
 確かに、以前はもう少しやわらかさもあった気がした。
「筋トレで?」
 へー、という目で苗床が聞き返してきたので、首を横に振った。
「筋トレじゃ脂肪は落ちねーよ。代謝が上がって、結局脂肪は燃えるとは言うけどな。直
接の原因はそれじゃねーな」
「じゃ、何?」
「有酸素運動だろ」
「それもしてるの?」
 有酸素運動は、不可抗力だけどな。

「ただいま」
「おかえり、ハル君」
「俺、先にシャワー浴びるから」
「また走って帰ってきたの?」
「ああ」
「高校入ってから筋トレとかジョギングとか、ずいぶん頑張ってるわねー」
「……まーね」
 粒麗荘に苗床を送った後で、俺が一番速く家に帰る方法は、『自分の足で走る』だ。
 交通機関を使っても、結局徒歩の移動距離が長いのは変わらねーからな。
 ――有酸素運動の正体は、間違いなくこれだ。

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