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「苗床」
 学校帰り。
 いつものように苗床を後ろにのっけて、苗床の自転車に二人乗りで粒麗荘まで送ってい
った。
 粒麗荘が見えたかな、というところまで来て。
 苗床を呼んだ。
「なに? 椿君」
 横座りの苗床からはまだ見えないだろうが、粒麗荘の前に軽く人だかりができている。
最初は火事でもあったかと思ったが、それほどの騒ぎでもなさそうだ。
「つぶれ荘、なんかあったんじゃね?」
 そう言っている間も自転車は漕いでいるので、もう粒麗荘は目の前だ。
「え?」
 背後で苗床が前を覗く気配がした。
「なんだろう、床でも抜けたのかな」
 素でその予測が出るボロアパートに女が一人暮らしってどうなんだと思ったところで、
粒麗荘の前に到着した。

「すみません! すみません!」
「はあ……」
 さて、人だかりの正解はなんだったかと言うと。
 床ではなく、『壁が抜けた』だった。
 なんつー安普請だ。
 そして現在、苗床が隣の部屋の住人に謝られている。
 抜けた壁が、苗床の部屋との境の壁だったからだ。
 犯人は、隣人の友人二名。隣人の部屋で、喧嘩になったらしい。
 人だかりは喧嘩の騒ぎを聞きつけてのものだった。今はもう、野次馬は散っている。
 喧嘩自体も、純被害者に当たる苗床が帰宅したために停戦している。
 ……他人が寝る部屋に穴を空けておいて喧嘩を続行してるような連中なら、俺が一発や
二発は殴ってるとこだ。
 苗床は、壁の大穴を眺めていた。
「明日、修理してもらいますので……!」
 少なくとも明日までは、このまんまってことか。
 時間が時間だからな、今日中に無理なのは仕方がないだろう。
「あー、まー、直してくれるんならいいですけど」
 喧嘩で空いた穴の修理に、大家は金出してくれねーだろうな。
 つぶれ荘に住んでるような住人に、壁の修理代なんかポンと捻出できるのかとも思った
が、喧嘩の当人たちから絞り上げればどうにかなるってとこだろうか。
 ……ともあれ。
 修理されるまで、苗床の部屋とコイツの部屋は繋がってることになるわけか。
 苗床の実家が近ければ、短期間なら実家に帰る……という選択肢もあるかもしれないが。
たしか、今はかなり遠くなかったか。少なくとも、宝高に通えないくらいには。
「とりあえず、紙か板かなんかで塞いで」
 と、苗床が言い出したので、咳払いをした。
「苗床、うち来いよ」
「え」
 苗床がびっくり顔で振り返る。
「この部屋じゃ寝られねーだろ」
 普通は寝られねーんだよ、紙で穴塞いでも。
「え、でも、椿君ちに悪いし」
「気にしなくていーから」
「……あの、彼氏ですか」
 隣人が、おそるおそるという体で訊いてきた。
「いや、ただの友達」
 苗床は、さらりと答える。
 ……まあ、それはいい。今は事実だからな。
「別に俺は一人暮らしってわけじゃないです。ここから遠くはないし、実家暮らしなん
で」
 隣人に向けて、一応安全アピールをしておく。
 少なくとも、ここで寝るより安全だと。
「そうですか、えーと」
 紙で塞いだ穴の向こうに誰かが寝ている状態は、多分隣人としても居心地が悪いんだろ
う。俺の安全アピールに、隣人の安堵が見えた。
「隣のヤツも罪悪感で居心地悪いだろうから、今日は俺んちに泊まれって。うちの親なら
大丈夫だから」
 駄目押しに、苗床に囁いてやる。
「あー、そっか」
 やっとわかった、という顔をして、苗床は頷いた。
「じゃあ、私、今夜は椿君ちに泊めてもらいますんで。駄目なら、他の友達のとこにお願
いしてみるし」
 と、苗床は隣人に向かって言った。
 ……む。他の友達って……花井の家に行こうと思ってるな。
 まあ、それでもしょうがねーが……
 なんか、悔しいじゃねーか。
 そんな気がして、俺は絶対苗床を俺の家に泊めると心に決めた。

 俺の家に苗床を泊めるに当たって、真の障害は両親じゃない。
 つか、女の一人暮らしで壁に穴空いたから緊急避難なんて事情を話せば、普通駄目だと
は言わねーだろう。
 問題は。
「ハルくーん、おかえ……」
 ……姉貴だ。
「ただいま」
 玄関先で苗床を見た瞬間に顔を顰めて固まったので、すかさず苗床の手を引いて横を通
過する。
「お邪魔しま……」
 苗床は挨拶しようとしていたが……とりあえず、玄関で足止めを食らうと苗床がそのま
ま花井の家に行こうと考えかねないので、まず親に引き合わせて引き返せないようにし
ねーと。
 それで、母親のところに即行駆け込んだ。
「ごめん、今日、友達泊める」
 そして、訊かれる前に理由をわーっとまくし立てた。
「いいよな?」
 俺の勢いにどうやら相当びっくりしたらしく、母親は目を丸くしてただ頷いた。
 ……ちょっと必死感があったのは否定できない。でも苗床は、そんなことじゃあ俺の気
持ちになんざ気がつかないだろうから……いいんだ。気がついてくれたら、逆にめっけも
のだ。
「ねえ、おかあさん、迷惑なんじゃない? 泊まるの、本当に大丈夫?」
「……大丈夫だ。気にすんな」
 あれは、俺が必死になるなんて珍しいから驚いただけだ……
 ……お前だって、ちっとは珍しいとか思えよ。
 ともあれ第一関門を突破して、苗床を泊める部屋を……と考える。
「寝るの、客間でいいよな」
「うん」
 じゃあ、と客間に苗床を連れて行こうと思ったところで。
「ハル君っ」
 姉貴のマヒが解けたようで、俺たちのところに走り込んできた。
「客間ってどういうことっ!?」
 走ってきても、そういうのは聞こえるんだな。
「苗床を今夜泊めるんだ」
「ど、どどどどどうして」
 ……どうして、こんなに動揺するんだ。
 ちょっと目を合わさないようにして、苗床のアパートの壁が壊れた話をする。
「ホテルってわけにもいかないだろ?」
 ささやかに『ホテル』のところにアクセントを置く。
「……そうね。ただの友達だもんね」
 疑ってるな、これは。
 中学の時には、俺のケータイ使って呼び出すとか迷惑なことをしてくれたが。苗床本人
を見て、友達だって納得したみたいだったが……それも失礼な話だが。
 疑ってるだろう、また。
「だから、これから客間に」
「待って!」
「なんだよ」
 母親承認は、言った。それで駄目だとか言うなよな。
「客間はなし。私の部屋で一緒に寝なさい」
 ……は?
「へ?」
 黙って流れを見ていた苗床まで、素っ頓狂な声を出した。
 そりゃ出すだろ。
 なんで姉貴の部屋で苗床が一緒に寝るんだよ!
 姉貴の部屋で泊めるくらいなら俺の部屋で……!
 いやいやいや。
 ……苗床だよな? 姉貴と一緒に寝るの。
 あまりに突拍子がなくて、俺に姉貴と一緒に寝ろと言ってんじゃねーのかという疑問さ
え浮かぶ。
「なんで、そんな」
 あまりに色々疑問が湧きすぎて、逆にそんな短くしか問えなかった。
「いいじゃない。ハル君のお友達とお話したいだけよ」
 ……疑ってるからか。
 客間に泊めたら、俺が夜這いしにいくとでも思ってるのか。
 ……しまった、今気がついた。そんな手があったか。
「一晩、ゆ〜っくりとお話しましょ!」
 まあ、苗床をいくら追求したって、姉貴が求めてるようなモノは欠片も出て来ないけど
な……
「いいわよね!?」
「はあ」
「じゃあ、決まり!」
 姉貴は苗床の手を取って迫り、苗床が曖昧な返事をした揚げ足を取るように、押し切ら
れた。
 ……苗床、今夜は眠れないかもしんねーな。



 何事もなく、苗床も交えて夕飯を食った。
 何事もなく、苗床も風呂に入って……客用の歯ブラシを出してとか、タオルを用意して
とか、一切合切姉貴に先回りされた。
 ……俺を、とことん近づけねー気だな。
 ただ、風呂上がりにだけは遭遇して。
「あ、椿君。ごめん、色々用意してもらっちゃって」
 いや、全部やってるのは姉貴だから。
 でも。
 姉貴のネグリジェを貸した、というのだけは、姉貴の失敗だったと思う。
 それとも、あれか。
 俺を試してるのか……
 ……ぶかぶかで、しかも透けてるっての!
「じゃあ、椿君、おやすみ」
「……オヤスミ」
 俺は眠れないけどな、きっと。
 そして、苗床もやっぱり眠れなかったらしい。
 ……姉貴の追求で。
 翌朝、学校で夢見と会って。
「お二人とも、眠そうですね?」
「あー、昨日椿君ちに泊めてもらったんだけど、寝かしてもらえなくってさー」
 ……眠気でボケてる苗床の説明に色々抜けがあったことには気がついたが、俺は補足し
なかった。
 夢見が悲鳴を上げてるだけなら、実害はねーし。

 さて……粒麗荘の穴が塞がったのかはまだわからない。
 塞がっててくれ、と少し思う。
 ……寝不足が二日続くと、俺の理性が危なそうだからな……

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