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 真夜中のプール。
 誰もいないはずのそこから、水音と笑い声が聞こえる――
 それは、志半ばにして倒れた水泳部員の幽霊が、今も真夜中のプールで練習を続けてい
るからだという。
 そして真夜中のプールサイドに踏み込めば、練習仲間が来たと喜んだ彼女に水中に引き
ずり込まれ……二度と浮かび上がることはできないという……



 ……きゃっきゃと笑いさざめく声が夜のプールサイドに響いていた。
「すっごい気持ちいいですけど、これ、こんな夜中にプールに忍び込んで大丈夫なんです
か、先輩」
「大丈夫大丈夫、みんな真夜中のプールの噂を信じてて夜のプールには近づかないから」
「夜のプールの噂って?」
「知らない?」
「はい」
「真夜中のプールに幽霊が出るって噂」
「えー!」
「誰もいないはずの真夜中のプールから、水音と笑い声が聞こえるんだって。志半ばにし
て倒れた水泳部員の幽霊が、今も真夜中のプールで練習を続けてて、そして真夜中のプー
ルサイドに踏み込むと、練習仲間が来たと喜んだ彼女に水中に引きずり込まれて……二度
と浮かび上がることはできないんだそうよ」
「えええ……! だ、大丈夫なんですか、今、夜中……」
「ははは、嘘だって。もう代々、うちの合宿の時はこうしてプールに忍び込んでるけど、
出たことないもの」
「もう、驚かさないでくださいよー!」
「でも、こうしてプールに忍び込んで遊んでることは、絶対内緒だからね。なにかあって
も、プールの幽霊のせいにしておくんだよ。多分、こうして遊んだ跡が誰かに見つかった
りしたことが、怪談の元になったんじゃないかしらね」
「そんな気がしますね……わかりました、絶対内緒、ですね」
 また水音が弾ける。
 笑いさざめき、秘密の水遊びは続く。
 水遊びを堪能した彼女たちが、跡形もなく片付けをして、去っていったのは一時間後の
話……



 そして、その後。
 俺たちはようやく、プールサイドに立った。
「やっと行ったか」
 プールの用具室の奥から出て来た俺たちは、狭く暑いところに息を潜めていた時間に凝
り固まった筋肉を解すように伸びをしていた。
「暑ぃ……」
「用具室狭いからね、二人だと余計暑い。やっぱ次からは一人で」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ」
 一人で見張ると言いかけた苗床を、言い終わる前にげんこつで黙らせる。
「……ったー! だって、用具室にビート板とか取りに入って来るのもいるし、息を潜め
て潜むにもべったりくっついてないといけないし、椿君だって暑いでしょ!」
「暑いさ」
 もちろん暑いが、俺が暑いのの半分は……苗床と密着してるせいだ。
 誰でも同じなんじゃねーんだよ。
 ……いいかげん気がつけよ、お前は。
「駄目だ。夜中の学校に忍び込むのなんて、お前一人でさせられるもんか」
「椿君って、ほんと意外に心配性だよね。大丈夫だってのに」
「大丈夫だと思ってんのは、お前だけだ」
 それよりも、な。
「お前、次からって、まだ張り込むのか? 今ので証拠は押さえただろ」
「あそこだけじゃないんだよ、校内合宿中にプールに忍び込んでる部活。目星はつけてる
から、後二回は確認の張り込みするつもり。だから次からはつば」
「わかった、後二回な」
 来なくてもいいと言いかけただろう苗床の声を掻き消すように、上に返事をおっかぶせ
た。
「どんだけ信用ないかな、もう」
「あると思ってんのか」
 話をしながら、俺はプールサイドを歩き出す。
「とにかく、今日はおしまいだな。とっとと出ようぜ」
 不法侵入者であることは、さっきまでの部活の女生徒たちと俺たちも変わりない。
 いや、あっちは校内合宿の許可はあるのだから、学校への不法侵入度では俺たちの方が
上だ。
「うん、椿君、赤外線センサーに気をつけてね。変なとこ通ると警備会社が飛んでくるか
ら……」
 早足で追いかけてきた苗床を軽く振り返った瞬間。
 苗床は、プールサイドで足を滑らせた。
 そして、そのままプールへ――

 ――――……!

 水飛沫が跳ねる。
 ――お約束過ぎだ!
「苗床っ!」
 脳裏に水中に引きずり込む怪談の幽霊が、一瞬過ぎった。
 俺は、迷わずプールに飛び込んでいた。
「なえ……」
 水中で腕を掴んで、引っ張り上げて立つ。
「椿君……」
 プールに立つと、苗床でも胸上から上が出ている。
 水に濡れて額に貼り付いた前髪を掻き上げ、苗床が言った。
「いくら急に落ちても、プールで溺れるほどマヌケじゃないよ。本当に心配性なんだか
ら」
 悪かったな、心配性で。
「あー、でも、眼鏡どっかいっちゃった」
「ああ……待ってろ、拾ってやるから」
 俺は一瞬だけ苗床が幽霊に足を引かれたんじゃないかと思ったなんて言えなくて、バツ
が悪くて潜って、プールの底に落ちていた苗床の眼鏡を拾った。
「ほら」
「ありがと。とりあえず、大きい音立てちゃったし、すぐ出ないと、人が見に来たらヤバ
い」
 苗床は、勢いつけて飛び乗るようにしてプールサイドに上がる。
 ……お前、ミニスカだってわかってんのか!?
 しかも全部濡れ……
「椿君? 椿君も早く上がって」
「……ちょっと待ってくれ」
 こういう時には高速で数式を考えるといいらしい。
「早く」
 俺は時間稼ぎにプール端の手すりのところまで、プールの中で歩いて移動して、プール
サイドに上がった。
 その間、俺の頭の中では今までで最高の高速で無駄な演算処理が行われていたのは言う
までもない。

 とりあえず、無事にプールサイドに上がることができた……わけだが。
 水から上がっても、試練は続く。
 ……苗床が濡れていることには変わりないからだ。
 白いシャツは、濡れれば透けて、その下に隠している下着の線を浮かび上がらせている。
 ぶっちゃけ目のやり場に困るような、ガン見したいような、複雑な状況だ。
「まず学校出よ。椿君、うち寄る?」
「え?」
 俺は暑さで頭をヤラれたのかと、自分を疑った。
「濡れたまんまで帰るのはヤバくない? 少し乾かしてくとか」
「……いいのか?」
「いいよ?」
 ……そうか、いいのか。

 俺はもう一度数式のお世話になるべきなのか、いっそ我慢するのはやめるべきなのか、
粒麗荘までの道程で散々悩むことになった。

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